オーストラリアの牧羊業は1870年代に大きく発展しました(*1)。牧羊業者における牧草地の大半は、国有地の借地でした(*1)。借地を利用する牧羊業者は、地代を払っていました(*1)。1861年の土地法により、借地地代は、320エーカーあたり年間1ポンドでした(*1)。1エーカーあたりに直すと、借地地代は年間約0.003ポンドになりました。ちなみに土地価格は1エーカーあたり1ポンドでした(*1)。
この借地地代と土地価格は1880年代まで変わらなかったです(*1)。1エーカーは「約4,047㎡」でした。4,047の平方根は、約63.6になります。1エーカーの正方形において、1辺の長さは約63.6mになります。
当時イギリスにおいて平均的な地代は、1エーカーあたり年間1ポンドでした(*1)。
羊毛の大半は、委託販売方法によって、イギリスに輸出されていました(*2)。19世紀中頃、一般的には羊毛仲買人が羊毛委託販売を手掛けていました(*3)。
1870年代には主に預金銀行と牧羊金融会社が羊毛委託販売を担っていました(*3)。
先述の羊毛仲買人が1870~80年代に発展する形で、牧羊金融会社となりました(*4)。牧羊金融会社は手形の引受及び割引などの金融仲介をしていました(*4)。
羊毛委託販売では、イギリスのロンドンにおいて羊毛が値付けされた後、その代金が牧羊業者に支払われました(*3)。羊毛輸出代金の決済時期は偏っていました(*3)。決済時期以外では、牧羊業者は金融機関(預金銀行と牧羊金融会社)から借入をし、運転資金を確保していました(*3)。
預金銀行と牧羊金融会社は「羊毛委託販売」と「牧羊業者への貸付」において、競合していました(*3)。
預金銀行は牧羊業者に直接的貸付をする一方で、牧羊金融会社などを介在させる形で間接的貸付もしていました(*5)。
牧羊業者への貸付は「パストラル・ファイナンス」(pastoral finance)と呼ばれました(*2)。預金銀行の貸付の大半は、牧羊業者への貸付でした(*2)。
1901年1月1日、6つの植民地が統合し、「オーストラリア連邦」が誕生しました(*6)。
<引用・参考文献>
*1 『オーストラリアの金融・経済の発展』「第5章 牧羊金融の展開と貸付政策」(石田高生、2005年、日本経済評論社), p165
*2 『オーストラリアの金融・経済の発展』「第5章 牧羊金融の展開と貸付政策」, p163
*3 『オーストラリアの金融・経済の発展』「第5章 牧羊金融の展開と貸付政策」, p175
*4 『オーストラリアの金融・経済の発展』「第6章 金融市場の確立」(石田高生、2005年、日本経済評論社), p210
*5 『オーストラリアの金融・経済の発展』「第5章 牧羊金融の展開と貸付政策」, p176
*6 『物語 オーストラリアの歴史 イギリス植民地から多民族国家への200年 新版』(竹田いさみ・永野隆行、2023年、中公新書),p6
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