博徒組織「上滝(じょうたき)一家」(*1)は、初代・上滝久太郎の時代、佐賀市一帯を縄張りとしていました(*2)。1873年(明治六年)生まれの上滝久太郎が上滝一家を結成しました(*3)。1939年上滝久太郎は死去しました(*1)。
1919年(大正八年)「大日本国粋会」が結成されました(*4)。大日本国粋会は左翼勢力に対抗する目的で結成され、全国の博徒組織及び土建組織により構成されていました(*4)。
しかし九州では久留米市の博徒組織「赤司一家」(赤司力之助)(*5)、上滝一家(上滝久太郎)、福岡市の「大石一家」(大石八郎治)(*5)、若松の「吉田一家」(吉田磯吉)(*6)、熊本市の博徒組織「釣舟一家」(釣舟三平)(*7)、「梅津一家」(初代・梅津高次郎)(*8)等は大日本国粋会に加盟しませんでした(*9)。
赤司一家の赤司力之助は原古賀遊郭(久留米市)において「改新楼」という名の妓楼を経営していました(*10)。ちなみに「娼妓が一時的に座敷を借りている」という建前の下で営業していた妓楼が「貸座敷」でした(*11)。
釣舟一家は熊本市の二本木遊郭を縄張りとしており(*7)、首領の釣舟三平は「美代喜楼」という妓楼を経営しており、また山中勘次郎(釣舟三平の子分)も妓楼を一軒経営していました(*12)。
二本木遊郭は1877年(明治十年)頃、設けられました(*13)。昭和時代(1926~1989年)の初期、二本木遊郭には妓楼が70軒ありました(*13)。二本木遊郭は「九州三大遊郭」の1つで、残りの2つは福岡の「新柳町遊郭」、長崎の「丸山遊郭」でした(*13)。
九州勢の中で大日本国粋会に加盟した者に小倉の石野騂策がいました(*14)。石野騂策は大日本国粋会の「九州支部長」に就きました(*14)。
時代は戻りますが、1907年(明治四十年)3月、上滝一家の柴田定一(上滝久太郎の子分)は佐賀市の今宿遊郭付近にて大坪次郎を刺殺しました(*15)。大坪次郎は佐賀県神崎郡千歳村(現在の神崎市)の土木請負業者で、佐賀県に加えて、福岡県、長崎県にも進出していました(*5)。大坪次郎はこの3県における土木建築の大きな入札では「談合屋」として働き、談合金を手にしていました(*16)。
上滝一家二代目・上滝英(初代上滝久太郎の甥)(*3)は、太平洋戦争終(1945年)後、「上滝建設」を設立しました(*17)。上滝英は、長崎県長崎市の博徒組織「宮久一家」トップの宮崎久次郎とは兄弟分(義兄弟)の仲でした(*17)。
後に上滝英は上滝建設の会長になり、上滝英の長男が社長を務めました(*1)。
「長崎一家」が上滝一家の後継組織でした(*3)。
<引用・参考文献>
*1 『九州やくざ者』(藤田五郎、1972年、徳間書店),p19,194-196
*2 『九州やくざ者』,p15,25
*3 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑧ 現代ヤクザマルチ大解剖 ②』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2005年、三和出版), p112
*4 『洋泉社MOOK・ヤクザ・流血の抗争史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2001年、洋泉社),p12-14
*5 『九州やくざ者』,p12-14
*6 『九州やくざ者』,p151-152,161
*7 『九州やくざ者』,p40,53,87
*8 『九州やくざ者』,p178-179
*9 『九州やくざ者』,p144
*10 『九州やくざ者』,p16
*11 『花街 遊興空間の近代』(加藤政洋、2024年、講談社学術文庫),p15-16
*12 『九州やくざ者』,p45,67
*13 『消えた赤線放浪記 その色町の今は…』(木村聡、2016年、ちくま文庫),p316
*14 『九州やくざ者』,p140-141
*15 『九州やくざ者』,p25-30
*16 『九州やくざ者』,p15
*17 『興行界の顔役』(猪野健治、2004年、ちくま文庫), p41-43
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