銀座(中央区)は、博徒組織「生井(なまい)一家」の縄張りの1つでした(*1)。
生井一家は生井弥兵衛によって結成されました(*2)。生井弥兵衛は下総(千葉県北部と茨城県西部)古河生井の出身でした(*2)。生井弥兵衛は、博徒組織「大久保一家」の貸元の1人だったといわれていました(*3)。
大久保一家初代総長・田中代八は1784年(天明四年)に死去しました(*3)。大久保一家は古くから活動していたことが分かります。初代(田中代八)の時代、大久保一家は上州(現在の群馬県)駒寄村大久保を縄張りにしていました(*3)。博徒組織において縄張りとは「賭場開帳権を行使できる地理的範囲」を意味しました(*4)。
幕末の生井一家は、現在の千葉県北部と茨城県南部を活動範囲としていました(*2)。
後に逸見貞蔵が生井一家の二代目を継ぎました(*2)。次に宝田多三郎が三代目を継承しました(*2)。二代目・逸見貞蔵、三代目・宝田多三郎は下総古河の出身でした(*2)。下総古河は、現在では茨城県古河市になります。
四代目総長小川卯兵衛の時代、生井一家は東京日本橋の人形町(中央区)に進出し、人形町を縄張りとしました(*2)。「佃政一家」初代総長・金子政吉は「小川卯兵衛の客分」でした(*2)。
生井一家が進出した人形町には、江戸時代、遊郭(通称「吉原」)が置かれていました(*5)。後にその遊郭は日本堤(台東区)に移転しました(*5)。日本堤の遊郭は「新吉原」と呼ばれ、一方で人形町の遊郭は「元吉原」と呼ばれるようになりました(*5)。
生井一家の貸元・井上吉五郎は、深川洲崎(現在の江東区)の遊郭地帯を縄張りとしていました(*6)。深川洲崎の遊郭は、元々は根津(文京区)にありました(*7)。明治時代(1868~1912年)、根津の遊郭が深川洲崎に移転したのです(*7)。
近代の東京では、この深川洲崎に加えて、新吉原、千住、板橋、新宿、品川の計6か所に遊郭が配置されていました(*7)。千住、板橋、新宿、品川は総称で「四宿」と呼ばれていました(*7)。四宿は江戸時代の街道の拠点でした(*7)。
1900年(明治三十三年)「娼妓取締規則」(内務省令第四十四号)が発布されました(*8)。娼妓取締規則では、売買春が一定の空間の内部に限定して認められること、また警察組織がそれ(一定区域内で認められた売買春)を取り締まることが、定められました(*8)。当時の日本では、条件付きで売春が合法化されていたのでした。
井上吉五郎は後に、生井一家の五代目を継ぎました(*2)。五代目井上吉五郎の時代、生井一家は縄張りを拡張しました(*1)。
明治時代(1868~1912年)、政府は博徒組織を取り締まっていました。1884年(明治十七年)1月、太政官布告第一号「賭博犯処分規則」により、博徒組織への取締り強化(通称:「博徒狩り」)が全国的に実施されました(*9)。1890年(明治二十三年)(*10)、1898年(明治三十一年)頃(*11)、1909年(明治四十二年)(*12)にも博徒組織への取締り強化が開始されました。1908年(明治四十一年)新刑法が施行されました(*13)。
当時、賭博事犯に関して警察組織は「現行犯」でしか逮捕できませんでした(*14)。1878年(明治十一年)司法省は「賭博は現行犯以外逮捕できない」という指令を出しており、それに基づき、警察組織は現行犯のみ逮捕していました(*14)。しかし1964年(昭和三十九年)以降、賭博事犯に関して警察組織は非現行でも逮捕する方針に切り替えました(*15)。
明治時代(1868~1912年)、非現行では逮捕されなかったものの、博徒組織は厳しい取り締まりにあうこともあり、組織の取り巻く状況が変化することもあったのです。
また大正時代(1912~1926年)では関東の博徒組織にとっては、1923年(大正十二年)9月1日、関東大震災がありました(*12)。博徒組織にとって「警察組織の取締り」や「自然災害」は「変数」といえました。
生井一家に話を戻します。資料によっては、井上吉五郎が「生井一家三代目」となっていました(*2)。その場合(三代目井上吉五郎の場合)、初代は生井弥兵衛、二代目は逸見貞蔵となっていました(*2)。
井上吉五郎の別名は「金山吉五郎」「古賀吉」でした(*2)。先述したように五代目井上吉五郎の時代、生井一家は縄張りを拡張しました。井上吉五郎の時代、生井一家は深川洲崎、銀座、八丁堀、蠣殻(かきがら)町、深川扇橋、大工町、上州高崎を縄張りとしていました(*16)。ちなみに先述の佃政一家は築地、魚河岸、新富町、鉄砲洲から神田今川橋にかけて縄張りを持っていました(*16)。
井上吉五郎の死去後、武部申策が生井一家・貸元になり、深川洲崎の縄張りを手中に収めました(*6)。加えて武部申策には、同じ生井一家内の竹内寅吉の縄張りも譲渡されました(*6)。
深川洲崎の縄張りに関しては、井上吉五郎の生前中に、武部申策が「井上吉五郎の舎弟」になり、同時に生井一家の貸元にもなって深川洲崎の縄張りを監督していったという説もあります(*16)。
武部申策は和歌山の出身でした(*6)。大正時代(1912~1926年)から昭和初期、武部申策は深川洲崎を中心に東京で大きな勢力を築きました(*2)。武部申策系列(つまり生井一家系列)の組織の1つに「高木組」(組長:高木康太)がありました(*6)。高木組の活動拠点は芝浦(港区)でした(*6)。
東京湾の埋め立て工事が始まった頃、高木組は結成されました(*17)。高木組は人足供給業(労働者派遣業)の組織でした(*17)。東京湾の埋め立て目的は、東京港の開港でした(*17)。1941年(昭和十六年)5月20日東京港は開港しました(*18)。
東京港の開港前から「ふ頭」(港湾施設の総体)が各地で完成していました。1925年(大正十四年)日の出ふ頭(港区)が完成しました(*18)。1932年(昭和七年)芝浦ふ頭(港区)が完成、1934年(昭和9年)竹芝ふ頭(港区)が完成していました(*18)。
太平洋戦争終了後、連合軍が東京湾の臨港地区のほとんどを接収しました(*18)。
また芝浦には海運業の「荒井組」も活動していました(*19)。関東大震災直後、荒井直が芝浦で人足供給業の組織として荒井組を結成しました(*19)。荒井組は後に海運業を手掛けていきました(*19)。
向後平や浜本政吉(住吉連合会の最高顧問)は荒井組の出身でした(*19)。
芝浦は元々、博徒組織「住吉一家」の縄張りでした(*17)。先述したように、博徒組織の縄張りとは「賭場開帳権を行使できる地理的範囲」のことでした。高木組の高木康太は住吉一家の客分でした(*17)。
当時、港湾荷役労働には賭博が付属していました(*6)。高木組や荒井組は正業(人足供給業等)をする一方で、賭博業も手掛けていたと考えられます。高木組と荒井組は、賭場開帳にあたって、住吉一家(縄張り主)に「カスリ」(*20)を払っていたと考えられます。博徒業界では他団体(博徒組織A)から許可をもらった上で、その他団体(博徒組織A)の縄張り内で賭場を開帳することがあり、その際は他団体(博徒組織A)に権利金を払いました(*20)。その権利金は「カスリ」と呼ばれていました(*20)。住吉一家側からいえば、縄張り内で高木組や荒井組の賭場開帳を認める代わりに、カスリを徴収していたと考えられます。
高木組・代貸の阿部重作は、後に住吉一家に移籍、1948年住吉一家三代目を継承しました(*17)。生井一家系列の組織は芝浦にも進出していたことが分かります。
太平洋戦争終了(1945年)後、先述の荒井組にも変化がありました。戦後、荒井直が事業に専念するという理由で、向後平と浜本政吉が住吉一家(三代目総長・阿部重作)に移籍しました(*19)。
「カスリを払っていたと思われる組織」(高木組や荒井組)から「カスリを徴収していたと思われる組織」(住吉一家)に人が移籍していったのです。
浅草の博徒組織「鼈甲家一家」は1897年(明治三十年)頃に結成されました(*21)。鼈甲家一家の結成者は、一見直吉でした(*21)。一見直吉は元々、生井一家・貸元の青木粂次郎の若い衆(子分もしくは舎弟)でした(*21)。
古河市(茨城県)は、生井一家にとって「出生地」ともいえる場所でした。三代目から五代目までの生井一家総長には「生井一家古河」という名跡もありました(*22)。「古河」という名前は、下総国古河在の地名から来ていました(*22)。三代目宝田多三郎は「生井一家古河初代」、四代目小川卯兵衛は「生井一家古河二代目」、五代目井上吉五郎は「生井一家古河三代目」を名乗りました(*22)。
1998年時点、生井一家・2次団体「小林一門」が古河市を拠点に活動していました(*22)。
江戸時代において古河(現在の古河市)は、日光街道の宿場町の1つでした(*23)。日光街道は五街道の1つで、江戸から日光までの約140kmを結んでいました(*23)。日光街道には21の宿場町がありました(*23)。日光街道の起点は日本橋で、最初(第一)の宿場町が千住でした(*24)。先述したように千住は「四宿」の1つでした。千住から数えて9番目の宿場町が古河になりました(*23)。古河は古河城の城下町でもありました(*25)。日光社参の将軍は、3泊目に古河城に宿泊しました(*25)。
宇都宮は17番目の宿場町であり、日光街道で最も栄えていました(*23)。また宇都宮は奥州街道との分岐点でもありました(*23)。
ちなみに「四宿」には千住の他に、板橋、新宿、品川がありました。板橋は中山道の第一の宿場町でした(*26)。新宿(内藤新宿)は甲州街道の第一の宿場町でした(*27)。品川は東海道の第一の宿場町でした(*28)。上記の五街道(日光街道、奥州街道、中山道、甲州街道、東海道)の起点は全て日本橋でした(*29)。
江戸時代の博徒組織は天領(幕府直轄領)もしくは寺社領を拠点にし、概ね賭場は寺社領で開帳されていました(*30)。天領では人員不足、代官が遠くにいる等で、治安維持の力は弱かったです(*30)。
関東地方では複数の領主が「1つの村」を支配するという場合が多く、天領、大名領、旗本知行所、寺社領が複雑に配置されていました(*31)。江戸防衛の為、関東では利根川や荒川などの河川筋、主要街道の要衝に天領が置かれていました(*32)。
関東地方では犯罪人が他領に逃げ込みやすく、逃げ込まれた場合、その逮捕は困難でした(*31)。その対策として1805年(文化二年)「関東取締出役」(通称:八州廻り)が設けられました(*31)。関東取締出役には関八州(水戸藩領、川越藩領などを除く)の捜査権が付与されました(*31)。
先述したように四代目総長小川卯兵衛の時代、生井一家は東京日本橋の人形町(中央区)に進出しました。江戸時代から「古河」と「日本橋」は日光街道を通じてつながっており、生井一家にとって日本橋は比較的に進出しやすい場所であったと考えられます。
また1891年(明治二十四年)、日本鉄道が上野~青森間(現在の東北本線)を開業しました(*33)。東北本線には古河駅もあります。1891年以降、鉄道で古河から東京に行くことができるようになったのです。
1958年7月「日本国粋会」が結成されました(*34)。日本国粋会結成には、「大日本国粋会」の復活が意図されていました(*34)。1919年(大正八年)大日本国粋会は結成されました(*34)。大日本国粋会は、土建業者を含む博徒組織の全国的な集合体でした(*34)。太平洋戦争終了(1945年)の翌年(1946年)、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)からの解散指定により、大日本国粋会は解散しました(*35)。
生井一家が日本国粋会の結成を主導しました(*35)。初期の日本国粋会は「理事長制」をとっていました(*34)。「田甫一家」総長の青沼辰三郎が初代理事長に就きました(*34)。青沼辰三郎理事長体制において生井一家の森田政治は「日本国粋会の幹事長」を務めました(*35)。
日本国粋会には生井一家や田甫一家以外に、結成時「小金井一家」、佃政一家、「落合一家」「信州斉藤一家」「金町一家」等が加入しました(*34)。
森田政治は、篠原縫殿之輔(生井一家八代目総長)の子分でした(*35)。近藤幸次が生井一家九代目を継承しました(*35)。森田政治は1963年5月、生井一家十代目を継承しました(*35)。
後に日本国粋会は「会長制」に切り替え、森田政治が初代会長に就任しました(*34)。1964年12月森田政治(当時、日本国粋会会長)は「山口組」若頭の地道行雄と兄弟盃を飲み分けました(*36)。五分兄弟盃の場合、同量の酒が2つの盃に注がれ、当事者の2人がそれを飲み干しました (*37)。つまり五分兄弟盃では2人が酒を飲み分けたのです(*37)。五分の兄弟分は、別名「呑み分け兄弟」と呼ばれました(*37)。森田政治と地道行雄は「飲み分けた」為、五分の兄弟分になったのでした。先述したように当時の森田政治は、生井一家十代目総長兼日本国粋会会長でした。
1965年12月、日本国粋会は解散しました(*34)。この解散時(1965年12月)、日本国粋会会長は森田政治でした(*34)。
日本国粋会結成の同年(1958年)、「港会」が結成されました(*38)。港会は博徒組織、テキヤ組織、愚連隊などの28団体により構成されていました(*38)。先述の住吉一家(三代目総長・阿部重作)が港会の中核を担っていました(*38)。「住吉会」の源流が港会でした(*38)。
住吉一家以外には「上萬一家の一部勢力」「波木一家」「共和一家」「弥根屋一家」「音羽一家」「千住一家」「堀越一家」「千人同人会」等が港会に加盟しました(*39)。港会発足時、青田富太郎(住吉一家・貸元)が港会の会長に就任し(*39)、村山洋二(弥根屋一家七代目総長)が港会の副会長に就任しました(*40)。
住吉一家(二代目総長・倉持直吉)は、先述の大日本国粋会(1919年結成)に結成時から加入していました(*41)。しかし後継の日本国粋会(1958年7月結成)には住吉一家は加入しませんでした。
1921年(大正十年)1月、河合徳三郎が大日本国粋会を脱退、「大和民労会」を立ち上げました(*41)。大和民労会は民政党に近かったです(*41)。一方、大日本国粋会は政友会に近かったです(*41)。
河合徳三郎は関東土建業界の顔役で(*41)、関根賢(「関根組」創設者)、高橋金次郎(「浅草高橋組」創設者)、城迫正一(「小千鳥組」創設者)などを配下に置いていました(*42)。関根組は、1936年頃「土建業の組織」として結成されましたが、実態はヤクザ組織でした(*42)。浅草高橋組は土建業の組織である一方で、賭場を開帳していました(*43)。浅草高橋組は浅草を拠点にしていました(*43)。
小千鳥組は土建業を手掛ける一方、浅草近辺の映画館でフィルム運びや用心棒業もしていました(*44)。小千鳥組創設者の城迫正一は「柳下組」の出身でした(*44)。柳下組は鳶(トビ)の組織である一方、賭博業も手掛けていました(*44)。柳下組は河合徳三郎の系列でした(*44)。小千鳥組は後に解散しました(*44)。旧小千鳥組の一部勢力は「義人党」に加入しました(*44)。
河合徳三郎系列の関根組、浅草高橋組、小千鳥組等は「半博徒団体」と呼ばれていました(*42)。当時は土建業の親方が労働者を引き留める為、金銭を提供してまで労働者に賭博をやらせることも多かったといわれています(*41)。
関根組は1949年GHQの「団体等規正令」により解散しました(*42)。1953年3月、旧関根組勢力は新団体「松葉会」を結成しました(*42)。大和民労会(河合徳三郎派)の一部勢力が、松葉会の源流だったのです。
河合徳三郎脱退(1921年)の翌年(1922年)、関東勢と関西勢の対立が激化、大日本国粋会は実質分裂しました(*41)。関東勢は「大日本国粋会関東本部」として活動し、一方の関西勢は「大日本国粋会総本部」として活動していくことになりました(*41)。先述したように、大日本国粋会は1946年解散しました。おそらく後に関東勢と関西勢は再度合体し、1946年に解散したと考えられます。
1923年(大正十二年)正月、「大和民労会の浅草高橋組」と「大日本国粋会関東本部の田甫一家」の間で抗争が勃発しました(*41)。抗争勃発の背景には縄張り争いがありました(*41)。先述したように浅草高橋組は賭博業も手掛けており、一方の田甫一家も浅草で賭場を開帳する博徒組織でした(*44)。この抗争は、浅草付近の賭場開帳権を巡る対立に起因していたと考えられます。
1930年1月大日本国粋会関東本部は「関東国粋会」に改称しました(*41)。1933年時点の関東国粋会において、先述の住吉一家二代目総長・倉持直吉は「理事」を務めていました(*41)。ちなみに理事長は梅津勘兵衛(上州屋二代目総長)が務めていました(*41)。
生井一家は後に、住吉会・2次団体「小林会」に銀座七、八丁目の縄張りを貸し出しました(*45)。つまり銀座七、八丁目は「貸し縄張(ジマ)」(*46)により運営されていたのです。ジャーナリストの鈴木智彦によれば、貸しジマとは「他団体が犠牲となり、組織の窮地を救った」「博打の借金の代わりに、縄張りを一代限りで貸す」等の理由で、一定期間、縄張りの利権を他団体に譲渡する制度でした(*46)。
一方、銀座において生井一家と小林会の間には「縄張りの賃借」はなかったという説もあります(*47)。銀座において生井一家は賭場開帳権を有すものの、氷の販売、流しのギター弾き、ミカジメ料徴収等の権利を主張しなかったということです(*47)。実際、生井一家は銀座においてミカジメ料を徴収しなかったといわれています(*47)。つまり小林会が銀座で氷の販売、流しのギター弾き、ミカジメ料徴収等をしていたということです。生井一家は銀座の縄張り内において、氷の販売、流しのギター弾き、ミカジメ料徴収等の利権を放棄(小林会に譲渡)していたということです。逆に小林会は銀座において賭場開帳権を有さないということです。この説(縄張りの賃借はない説)であれば、小林会は生井一家に地代やカスリを払う義務はありません。
貸しジマの例としては、博徒組織「滝野川一家」(二代目総長・小宮初五郎)が巣鴨の縄張りを博徒組織・幸平一家(貸元・田代久蔵)に一代限りの条件(田代久蔵の引退まで)で貸し出していたこと(*48)、博徒組織「瀬戸一家」が岐阜県中津川市の縄張りを他団体に貸し出していたこと(*49)等が挙げられます。
後者の岐阜県中津川市の縄張りに関して実態は複雑でした。中津川市においては博徒組織「信州玉木一家」も縄張りを持っていました(*49)。信州玉木一家は信州大桑村を中心に縄張りを持っていました(*49)。中津川市では2つの博徒組織が縄張りを持っていたのです。
中津川市は「出会費場所」でした(*49)。藤田五郎によれば、出会費場所とは「一町、一村、一字に於て、一家と他家との費場の競合する状態」を指しました(*49)。同一地域において複数の博徒組織が縄張りを持つ状態が、出会費場所だったのです。
出会費場所の形態としては「日分け」「処分」「寺分」などがありました(*49)。「処分」形態の出会費場所では、同一地域内で2つの組織の縄張りは地理的に分かれているものの、隣接していました(*49)。中津川市の出会費場所の形態は「処分」でした(*49)。
大正時代(1912~1926年)と昭和時代(1926~1989年)初期、瀬戸一家は中津川市の自身の縄張りを信州玉木一家に貸し出しました(*49)。中津川市において信州玉木一家が自身の縄張りと瀬戸一家側の縄張りを一括で管理していたのです。
その後、信州玉木一家は戦前(1941年以前)からテキヤ組織・中京熊屋一家の田中亀吉に中津川市の縄張り(瀬戸一家の縄張り+信州玉木一家の縄張り)を貸し出しました(*49)。田中亀吉が中津川市の縄張りを借りることに関しては、瀬戸一家側も承認しました(*49)。
「中津川市における瀬戸一家の縄張り」は、まず信州玉木一家に貸し出された後、田中亀吉に転貸されたのです。
田中亀吉は太平洋戦争終了(1945年)以降、中津川市の縄張り(瀬戸一家の縄張り+信州玉木一家の縄張り)を林純平に貸し出しました(*49)。林純平は元々、中津川市を拠点に活動する愚連隊の首領でした(*49)。当時、田中亀吉は恵那郡大井町(現在の恵那市)に住んでいました(*49)。
1955~1956年頃に林純平は、博徒組織「信州斎藤一家」の二代目総長・滝田健の子分になり、「林組」(信州斎藤一家の2次団体)を立ち上げました(*49)。
この時点で「中津川市における瀬戸一家の縄張り」は、信州玉木一家に貸し出された後、田中亀吉に転貸され、さらにそこから林純平にも転貸されたのです。
1960年より少し前に、田中亀吉は中津川市の縄張り(瀬戸一家の縄張り+信州玉木一家の縄張り)を瀬戸一家に「返還」することにしました(*49)。当時の信州玉木一家の活動実態が不明ですが、返還の名の下、瀬戸一家が「中津川市における信州玉木一家の縄張り」を回収しようとしていたことが窺い知れます。
その後、瀬戸一家は、転貸先の林純平に対し、中津川市の縄張り(瀬戸一家の縄張り+信州玉木一家の縄張り)を瀬戸一家に渡すように伝えました(*49)。しかし林純平は縄張りを渡すことを拒否しました(*49)。1960年田中亀吉は病死しました(*49)。
博徒業界の縄張りは重層的に統治されていたことが分かります。
生井一家の話に戻ります。また生井一家は住吉会・2次団体「向後睦会」とは親戚関係を有していました(*50)。
戦前(1941年以前)、東京・日本橋蠣殻町付近では8組織が賭場を開帳していました(*51)。このことは「蠣殻町八天下」と呼ばれました(*51)。営業時間は「午前」「午後」「宵(日暮から夜中までの間)」「夜中」の4つに区分されていました(*51)。8組織は協調し、営業時間を分けていました(例えばA組織は「午前」、B組織は「午後」に賭場を開帳)(*51)。8組織のうちの1つが生井一家でした(*51)。当時の生井一家は、8組織のうちで最大の勢力を擁していました(*51)。別の見方をすれば、当時の日本橋蠣殻町では縄張りが共有されていたことが分かります。
1915年(大正四年)頃、蠣殻町には私娼の置屋がありました(*52)。
所沢の博徒組織「力山一家」の大森幸平は、生井一家(資料では「生一家」と表記)に移籍、その後蠣殻町で活動しました(*11) (*53)。
太平洋戦争終了(1945年)後、元生井一家の新田新作はGHQの仕事を大量に請け負いました(*54)。新田新作は新田建設(土建業)や明治座の社長でした(*55)。
新田新作(1904年生まれ)は戦前、生井一家・貸元の鈴木栄太郎の盃をもらい、生井一家に入りました(*54)。新田新作は鈴木栄太郎の子分もしくは舎弟だったのです。戦後、新田新作は新田建設を起業し、ヤクザ組織業界から引退をしました(*54)。明治座に関しては、新田新作が松竹から復旧工事を請け負い、復旧させた後、その社長に就きました(*54) (*55)。
新田新作と阿部重作(住吉一家三代目総長)は兄弟分(義兄弟)でした(*56)。
一方で新田新作は戦後も「ヤクザ組織の親分」であり、蠣殻町の賭場一帯を仕切っていたという説があります(*55)。つまり新田新作の裏の顔は「蠣殻町の貸元」だったということです。しかしGHQの仕事を請け負っていたことから、やはり新田新作は引退したと思われます。博徒業界では、現役の親分が「引退した親分」にボーナスを贈る慣習がありました(*20)。このボーナスは「コク」と呼ばれました(*20)。博徒業界では親分は引退しても元の組織とはつながりを有していたのです。新田新作も引退はしていたものの、元の組織(生井一家系)には何かしらの影響力を及ぼしていたと考えられます。
先述の篠原縫殿之輔(生井一家八代目総長)は元々、小金井一家の構成員でした(*57)。篠原縫殿之輔は小金井一家の平松兼三郎(北八幡の総長)(*58)の子分でした(*57)。小金井一家初代の小金井小次郎は晩年、縄張りを分割し、貸元らに譲渡しました(*59) (*60)。貸元らに縄張りを分けることは「場所分け」と呼ばれました(*60)。小金井小次郎は1877年(明治十年)に死去しました(*59)。初代(小金井小次郎)の死去後、小金井一家では二代目を継承する者はなく、2名の世話役が合議制により小金井一家を統括していくことになりました(*58)。小金井一家の長老達(田中三次など)が、「東京」と「神奈川」から各1名を世話役として推薦しました(*58)。田中三次は小金井一家「四軒寺」四代目(貸元)でした(*58)。東京の世話役は「北八幡の総長」、神奈川の世話役は「南八幡の総長」と呼ばれていました(*58)。
篠原縫殿之輔の親分であった平松兼三郎は北八幡の総長であり、つまり「小金井一家の東京方面の世話役」だったのです。一方、同時期の南八幡の総長(神奈川の世話役)は西村林右衛門でした(*58)。平松兼三郎と西村林右衛門が合議して、小金井一家を仕切っていたのでした。平松兼三郎は新宿を拠点にしていました(*58)。西村林右衛門は後に小金井一家三代目総長を継承しました(*61)。ちなみに小金井一家の系譜では市村和十郎(小金井小次郎の養子)が小金井一家二代目と位置付けられていました(*58) (*61)。「小金井一家二代目総長・市村和十郎」は後年、便宜上設けられたと考えられます。
小金井一家四代目総長・金子万蔵が「南北」(神奈川と東京)を再統一したといわれています(*58)。
ちなみに戦前の日本軍は、台湾における軍役夫調達業務を平松兼三郎(小金井一家の東京方面の世話役)に委託していました(*62)。
篠原縫殿之輔の話に戻します。後に篠原縫殿之輔は小金井一家から「長谷川一家」に移籍、長谷川一家の二代目を継承しました(*57)。長谷川一家(初代総長・長谷川亀吉体制)は赤坂から新橋銀座にかけて縄張りを持っていました(*57)。長谷川一家は「一家」とはなっているものの、実態は生井一家内の組織(生井一家の2次団体)だったのかもしれません。もしくは長谷川一家は独立の組織だったものの、長谷川一家二代目総長・篠原縫殿之輔体制時に、生井一家に組織ごと移籍したのかもしれません。
太平洋戦争終了(1945年)後の銀座では、町井久之(本名:鄭建永)のグループ(後身は「東声会」)と住吉一家内の「浦上一派」が勢力を張っていきました(*63)。町井久之のグループと浦上一派は銀座では協力し合っていました(*63)。
浦上一派の別名は「銀座警察」で、浦上一派は銀座一丁目から八丁目までのダンスホール、ビヤホール、バー、社交喫茶、小料理屋等を影響下に置いていました(*64)。
生井一家に対抗する新勢力が銀座に現れていったのです。
最後、補足になりますが、初代・生井弥兵衛の「呑み分け兄弟」(五分の兄弟分)の1人として、相の川政五郎(高瀬仙右衛門)がいました(*65)。相の川政五郎は博徒組織「相の川一家」を結成しました(*65)。相の川政五郎は、越後国長岡の親分・高橋治助と高橋綱助(高橋治助の子)を舎弟にしました(*65)。高橋親子は「高砂屋一家」を率い、高橋綱助の時代には高砂屋一家は長岡をはじめ柏崎あたりまで縄張りを有しました(*65)。後に相の川政五郎は越後から長野市権堂(善光寺近く)に移り、遊郭の女郎屋を経営、また長野市権堂を縄張りとしました(*65)。長野市権堂時代、相の川政五郎は自身を「上総屋源七」と称していました(*65)。相の川政五郎は後に、長野市権堂の女郎屋と縄張りを、義弟の島田屋伊伝次に譲渡し、郷里(群馬県邑楽郡板倉町大高島)に戻りました(*65)。以降、相の川政五郎は「高瀬仙右衛門」と名乗るようになりました(*65)。
<引用・参考文献>
*1 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p42-43
*2 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p72-73
*3 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫), p180-182
*4 『現代ヤクザ大事典』, p61
*5 『フーゾクの現代史 元情報誌編集長が見た「歴史の現場」』(生駒明、2022年、清談社),p20-21
*6 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p43-44
*7 『花街 遊興空間の近代』(加藤政洋、2024年、講談社学術文庫),p42,99
*8 『花街 遊興空間の近代』,p16
*9 『やくざと日本人』(猪野健治、1999年、ちくま文庫),p127
*10 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』(藤田五郎編集、1972年、徳間書店),p214
*11 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p225
*12 『サカナとヤクザ 暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う』(鈴木智彦、2021年、小学館文庫),p335-336
*13 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p228
*14 『江戸のギャンブル』(有澤真理、2017年、歴史新書、洋泉社),p173
*15 『ヤクザ大辞典』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫),p108-109
*16『関東やくざ者』(藤田五郎、1971年、徳間書店),p43-46
*17 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』,p307-308
*18 東京都 港湾局サイト「東京港の歴史」
https://www.kouwan.metro.tokyo.lg.jp/yakuwari/rekishi
*19 『伝説のヤクザ18人』(山平重樹、2018年、文庫ぎんが堂),p32-34, 38-39
*20 『日本賭博史』(紀田順一郎、2025年、ちくま学芸文庫),p70
*21 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』,p297
*22 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』, p269-270
*23 人力サイト「日光街道」
https://www.jinriki.info/kaidolist/nikkokaido
*24 人力サイト「日本橋~千住を歩く」
https://www.jinriki.info/kaidolist/nikkokaido/nihonbashi-senju
*25 人力サイト「古河宿」
https://www.jinriki.info/kaidolist/nikkokaido/nakada_koga/kogashuku
*26 人力サイト「日本橋~板橋を歩く」
https://www.jinriki.info/kaidolist/nakasendo/nihonbashi_itabashi
*27 人力サイト「日本橋~内藤新宿を歩く」
https://www.jinriki.info/kaidolist/koshukaido/nihonbashi_naitoshinshuku
*28 人力サイト「日本橋~品川を歩く」
https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/nihonbashi_shinagawa
*29 人力サイト「日本橋」
https://www.jinriki.info/kaidolist/nakasendo/nihonbashi_itabashi/nihonbashi
*30 『やくざと日本人』,p110
*31 『日本史リブレット49 八州廻りと博徒』(落合延孝、2002年、山川出版社),p12
*32 『やくざと日本人』,p117-118
*33 『鉄道と政治』(佐藤信之、2021年、中公新書),p44
*34 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社),p160-163
*35 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』,p122-126
*36 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦、2013年、講談社+α文庫),p50
*37 『現代ヤクザ大事典』, p91
*38 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』,p44
*39 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫),p193
*40 『極私的ヤクザ伝 昭和を駆け抜けた親分41人の肖像』(山平重樹、2023年、徳間書店),p35
*41 『洋泉社MOOK・ヤクザ・流血の抗争史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2001年、洋泉社),p13-19
*42 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』,p156-157
*43 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊),p93
*44 『破滅の美学 ヤクザ映画への鎮魂曲』(笠原和夫、2004年、ちくま文庫),p63-67,76-78
*45 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』,p108
*46 『極道のウラ情報』(鈴木智彦、2008年、宝島SUGOI文庫),p164-165
*47 『六代目山口組ドキュメント2005~2007』,p118
*48 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』,p117-118
*49 『実録 乱世喧嘩状』(藤田五郎、1976年、青樹社),p19-20,29-30,36-37
*50 『洋泉社MOOK・山口組・東京戦争』(有限会社創雄社編、2005年、洋泉社),p50
*51 『破滅の美学 ヤクザ映画への鎮魂曲』,p98-99
*52 『花街 遊興空間の近代』,p120-122
*53 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p211,224
*54 『FACTA』2016年9月号「小池の天敵「内田茂利権」の侠血」,p68-69
*55 『興行界の顔役』(猪野健治、2004年、ちくま文庫),p107-108
*56 『伝説のヤクザ18人』(山平重樹、2018年、文庫ぎんが堂),p178
*57 『関東やくざ者』,p71-73
*58 『実録 乱世喧嘩状』,p176
*59 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p17
*60 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』,p268-269
*61 『親分 実録日本俠客伝①』,p113-115
*62 『やくざと日本人』,p209
*63 『公安百年史 - 暴力追放の足跡』(藤田五郎編著、1978年、公安問題研究協会),p713
*64 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』,p43
*65 『任俠百年史物語Ⅰ 関東稲妻親分衆』(藤田五郎、1980年、笠倉出版社),p31-33,85,114
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