五条楽園

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 かつて京都市下京区に「五条楽園」と呼ばれる売春地帯がありました(*1)。五条楽園はいわゆる「青線」でした(*2)。青線とは「非合法の売春地帯」を指しました(*3)。太平洋戦争終了(1945年)後の日本では、一時期、条件付きで売春が認められており、合法の売春地帯は「赤線」と呼ばれていました(*3)。

 1958年4月売春防止法の施行により、売春は禁止となり、赤線も存在が許されなくなりました(*4)。ちなみに売春防止法が成立したのは1956年5月でした(*4)。

 売春防止法施行(1958年4月)以前、五条楽園は「七条新地」と呼ばれていました(*2)。戦後の七条新地は赤線でした(*1)。つまり1958年4月以前この売春地帯は合法的扱いを受けていたのです。そして五条楽園と名称変更して以降(1958年以降)、この売春地帯は非合法領域になったのでした。

 五条楽園の地帯には元々「五条橋下」と「七条新地」という2つの遊郭がありました(*1)。その2つの遊郭は大正時代(1912~1926年)に合併、その売春地帯の名称は七条新地に統一されました(*1)。

 元々、七条新地では芸妓と娼妓が活動していました(*1)。加藤政洋によれば、芸妓とは「歌・舞踊・三味線などの芸をもって宴席に興を添えることを業とする女性」、娼妓とは「おおやけに営業を認められた娼婦(公娼)」を指しました(*5)。芸妓の営業地帯は「花街」、娼妓(公娼)の営業地帯は「遊郭」と呼ばれました(*5)。

 昭和時代(1926~1989年)の初め頃、七条新地では娼妓のみが活動することになりました(*1)。つまり昭和時代の初め頃以前の七条新地は「花街」+「遊郭」の地帯であり、一方それ以降の七条新地は「遊郭」のみの地帯になったのでした。

 1988年の五条楽園では「置屋」が売春婦を「お茶屋」に派遣するという体制がとられていました(*6)。客はお茶屋にて性的サービスを受けました(*6)。置屋とは元々「芸妓を抱えて、料理屋等に派遣する店」を指しました(*5)。五条楽園は非合法の売春地帯であったことから、五条楽園における置屋は「売春婦を抱えて、派遣する店」であったと解釈できます。お茶屋とは京都では「貸座敷」もしくは「貸席」(娼妓の派遣先の店)を指しました(*5)。

 ちなみに「娼妓居付きの貸座敷」という形態もあり、その形態の貸座敷は「居稼(てらし)店」と呼ばれました(*7)。

 1988年の五条楽園では置屋は3、4軒あり、お茶屋(貸座敷)は20軒ほどありました(*6)。客がお茶屋に払う料金の総額は、40分で2万円、60分で2万5千円ほどでした(*6)。

 大阪市の飛田新地は1958年4月以降、当初は五条楽園同様、置屋から売春婦を料理屋(飛田新地の「貸座敷」)に派遣してもらう方法をとっていました(*8)。しかし後に飛田新地は料理屋に売春婦を待機させる方法に改めました(*8)。

 2010年10、11月の摘発により、五条楽園は消滅しました(*2)。ちなみに1959年(売春防止法施行の翌年)、中島会若頭の図越利一(後の会津小鉄会総裁)は五条楽園の芸妓組合の組合長に就任しました(*9)。

<引用・参考文献>

*1 『消えた赤線放浪記 その色町の今は…』(木村聡、2016年、ちくま文庫), p215

*2 『青線 売春の記憶を刻む旅』(八木澤高明、2015年、スコラマガジン), p122-123

*3 『青線 売春の記憶を刻む旅』, p18

*4 『フーゾクの現代史 元情報誌編集長が見た「歴史の現場」』(生駒明、2022年、清談社), p39

*5 『花街 遊興空間の近代』(加藤政洋、2024年、講談社学術文庫), p220-221

*6 『消えた赤線放浪記 その色町の今は…』, p217-221

*7 『花街 遊興空間の近代』, p43

*8 『消えた赤線放浪記 その色町の今は…』, p211

*9『同和のドン 上田藤兵衞「人権」と「暴力」の戦後史』(伊藤博敏、2023年、講談社), p93

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