旧ソ連(現在のロシア)において1985年ゴルバチョフ共産党書記長は節酒令を公布しました(*1)。節酒令の内容としては、酒の店頭販売開始時間を14時以降にする、昼食時のレストランでは酒を提供しない等がありました(*1)。また節酒令の一環でワイン用のブドウ畑は根こそぎにされました(*2)。
国家機関が国民の飲酒習慣を改善しようとしたことは過去にもありました。アメリカ合衆国は禁酒法を1920~1933年まで施行していました(*3)。ロシアも1914~1924年、禁酒令を施行していました(*4)。ロシアの隣国であるフィンランドも1919~1932年まで禁酒法を施行していました(*5)。
旧ソ連では多くの人にとって酒は重要なものでした(*2)。1983年で 旧ソ連の「年間国民一人当たり純アルコール消費量」は12.0リットルで、欧米の約3倍の量でした(*4)。
節酒令公布後、人々はブラックマーケットで酒を求めました(*2)。旧ソ連の人々は合法的な市場で買えないもの関しては、ブラックマーケットを利用するということに慣れていました(*2)。
また旧ソ連のアウトロー組織は輸入酒、自家製酒、ブラックマーケットの酒、盗品の酒を供給していきました(*2)。自家製酒は自宅の戸棚、小屋、浴槽などで作られていました(*2)。自家製の蒸留酒は「サマゴン」と呼ばれていました(*1)。
アルコール密造が急増した結果、旧ソ連中で砂糖(アルコール密造で必要な材料)が不足しました(*2)。また工場からはアルコールがブラックマーケットに横流しされました(*2)。
先述したように隣国フィンランドでは1919~1932年禁酒法が施行されていました。1931年末フィンランドで「禁酒法廃止に関する国民投票」が行われました(*5)。結果、廃止賛成の票が70%だった為、翌1932年禁酒法は廃止されました(*5)。
以降、フィンランドではアルコール専売公社(国営)の「アルコ」のみが酒類販売をする形で、酒類が流通していきました(*5)。アルコはフィンランド国内の酒類販売を独占したのです。現在はスーパーマーケットにおいて一部の低アルコール飲料が販売されています(*5)。アルコの販売価格は高かったです(*5)。またフィンランドでは、アルコール度数に応じて、税率は高くなりました(*5)。
ゆえにフィンランドの人々はスウェーデンやエストニアに行って酒類を購入、また現地で飲酒をしました(*5)。またフィンランドの人々はフェリー客船(フィンランド領海以外の海上であれば、フィンランドの法律は効力を失う為)でも飲酒をしていました(*5)。
フィンランドとエストニアは地理的に近いです。現代では「フィンランドのヘルシンキ」から「エストニアのタリン」までの所要時間は、夏は高速船で1時間半、冬は大型フェリーで2時間です(*6)。
エストニアは2004年欧州連合(EU)に加盟しました(*7)。EU加盟(2004年)前のエストニアは物価が安かったです(*5)。フィンランドの人々にとって、エストニアは買い物しやすい場所だったのです。
エストニアは2011年には、通貨ユーロを導入しました(*8)。1992年から2010年までエストニアは独自通貨クローンを使っていました(*8)。
<引用・参考文献>
*1 『ユーラシア・ブックレットNo.89 いまどきロシアウォッカ事情』(遠藤洋子、2006年、東洋書店), p19-20
*2 『The Vory: Russia’s Super Mafia』(Mark Galeotti,2018, Yale University Press), p98-99
*3 『はじめてのアメリカ音楽史』(ジェームス・M・バーダマン・里中哲彦、2018年、ちくま新書),p154
*4 『ユーラシア・ブックレットNo.89 いまどきロシアウォッカ事情』, p12
*5 『物語 フィンランドの歴史』「コラム2 酒好きの国と禁酒法」(石野裕子、2022年、中公新書),p141-144
*6 『エリア・スタディーズ111 エストニアを知るための59章』「世界遺産の旧市街 いくつもの顔」(西角あかね、2012年、明石書店),p212
*6 『エリア・スタディーズ111 エストニアを知るための59章』「世界遺産の旧市街 いくつもの顔」(西角あかね、2012年、明石書店),p212
*7 『エリア・スタディーズ111 エストニアを知るための59章』「EUとの関係 エストニア人はヨーロッパ人になったのか」(小森宏美、2012年、明石書店),p175-179
*8 『エリア・スタディーズ111 エストニアを知るための59章』「通貨の変遷 クローンからユーロへ」(小森宏美、2012年、明石書店),p207-211
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