繁華街の露店商

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 1998年時、常設の露店商売は「道路交通法違反」に該当し、警察当局の取締り対象でした(*1)。太平洋戦争終了時(1945年)から少しの間、日本では常設の露店商売が許されていました(*2)。

 連合国軍総司令部(GHQ:General Headquarters)は1949年8月4日、東京都と警視庁に対し「翌年(1950年)3月31日までに三多摩と島嶼を除く都内の公道から露店を撤去すること」を指示しました(*3)。翌月(1949年9月)、都知事、警視総監、消防総監は連名で、道路上の露店(常設露店)に対し撤去通告をしました(*4)。

 実際、1950年から1951年にかけて東京都の一部(東京都の中で三多摩と島嶼を除く地域)で常設露店が無くなりました(*4)。他の地域においても1950年前後に、常設露店は禁止されていったと考えられます。テキヤ業界は、1950年前後までの常設露店を「平日(ヒラビ)」と呼んでいました(*2)。

 1960年12月道路交通法が施行されました(*5) 。道路交通法は、露店商が所轄の警察署から許可を受ければ、道路上で露店商売することを可能としました(*5)。しかしこの道路交通法も先述したように、ヒラビを禁止としました。

 ヒラビの禁止(1950年前後)以降も、繁華街の道路では露店商売が見られました。繁華街の露店商は基本的に、ヤクザ組織に「場所代」を払っていました(*1)。

 所轄の警察署に対し許可を受けずに商売していた露店(無許可露店)は「ひろい」と呼ばれました(*6)。都市部では無許可露店が増えていきました(*6)。当然警察は無許可露店を摘発すると、その露店商に罰金を科しました(*6)。

 先述したヤクザ組織に対し場所代を払っていた繁華街の露店商の大半は、無許可露店(ひろい)の露店商だったと考えられます。

 無許可露店の露店商は道路交通法により「警察当局の取締り対象」である以上、商売上のトラブル解決を警察当局に頼ることができません。結果、無許可露店の露店商はヤクザ組織から暴力的脅迫を受けても警察当局に行けない為、ヤクザ組織に「場所代」を払うという選択肢しか持っていなかったのだと考えられます。

 ヒラビに関していえば、全国の高市(たかまち)を回る露店商も旅先でヒラビをする場合がありました(*7)。高市とは、社寺(神社や寺)の祭礼や縁日に仮設された露店市のことでした(*8)。

 全国の高市を回る露店商は、高市と高市の間に、ヒラビをすることがありました(*7)。露店商はヒラビの場所として、その時に多くの現金を手にしている地域を選んでいました(*7)。ゆえに露店商は収穫期や漁獲期を考慮した上で、ヒラビの場所を選定していました(*7)。

 ちなみに昔、所轄の警察署は、露店の出店場所を「慣行地」と呼んでいました(*9)。慣行地は、「縁日露店慣行地」「特殊露店慣行地」「平日露店慣行地」「臨時露店慣行地」の4つがありました(*9)。おそらくヒラビは、警察にとっては「平日露店慣行地」のことだったのでしょう。

<引用・参考文献>

*1 『新・ヤクザという生き方』「ヤクザの錬金術」(山之内幸夫、1998年、宝島社文庫), p318

*2 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p177

*3 『台湾人の歌舞伎町 ― 新宿、もうひとつの戦後史』(稲葉佳子・青池憲司、2024年、ちくま文庫), p121

*4 『東京のヤミ市』(松平誠、2019年、講談社学術文庫), p166-167

*5 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書),p89-90

*6 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房),p184

*7 『わんちゃ利兵衛の旅 テキヤ行商の世界』(神崎宣武、2023年、ちくま文庫),p85-86

*8 『盛り場の民俗史』,p44

*9 『生活史叢書3  てきや(香具師)の生活』(添田知道、1973年、雄山閣),p140

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