演歌師

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 太平洋戦争終了(1945年)以前、テキヤ業界では演歌師が活動していました(*1)。演歌師の石田一松は「両国家」一門(両国家系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)の組織に所属し、全国の高市(祭りや縁日)(*2)を回っていました(*1)。

 当時の演歌師は2人一組で、1人が歌い、もう1人が歌詞パンフレットを売っていました(*1)。歌う者が「集客役」、パンフレットを売る者が「資金回収役」でした。石田一松は太平洋戦争終了後、衆議院議員総選挙に出馬し当選、議員となりました(*1)。

 歌詞パンフレットは「歌本」(演歌本)と呼ばれ、また演歌師業界内では「ネタ本」と呼ばれていました(*3)。歌本(ネタ本)の形態は、ザラ紙の折り本でした(*4)。

 歌本の卸(問屋)は「ネタ元」と呼ばれました(*5)。元々、個人の演歌壮士(演歌師の源流)(*4)もしくは団体が歌本を発行し、ネタ元となっていました(*6)。

 初期のネタ元としては「ランプ屋の武井」がいました(*5)。当時のネタ元は、「ランプ屋の武井」のみだったようです(*5)。後に「団子屋の岩田専助」もネタ元を始め、ネタ元は2軒になりました(*5)。演歌師は仕入れ代金を払えない時、ネタ元に金を借りる場合がありました(*5)。ネタ元は利息をとって、演歌師に金を貸しました(*5)。

 後にランプ屋の武井が死去し、団子屋の岩田専助が唯一のネタ元となり、歌本の卸業を独占しました(*6)。

  明治二十年代(1887~1896年)歌本は一銭、一銭五厘、二銭などの価格で客(消費者)に売られていました(*6)。

  先述したように演歌師の源流は演歌壮士でした。当時の壮士とは「血気盛んな若者」という意味でした(*4)。演歌壮士誕生の背景には、民権運動がありました(*4)。

  当時、政府側は野党側の演説会を様々な方法で中止に追い込みました(*4)。野党側は対抗策として、街頭で演説をしました(*4)。その際、演説者は小唄や講談の形式をとり、その新しい演説が「演歌」と表されたのです(*4)。

 演歌壮士の歌ったものは「壮士演歌」と呼ばれ、後には「壮士節」とも呼ばれました(*4)。

 後に経済的に余裕のない学生達が、収入を得る目的で、演歌を街頭で歌っていきました(*7)。演歌を歌う学生の増加により、演歌を歌う者達は「演歌壮士」から「演歌書生」と呼ばれるようになっていきました(*7)。書生とは「学問を身につけるために勉強をしている人」のことで、つまり学生のことです。

「学生(書生)が演歌を歌う」という流行も終わると、次に、営利事業目的で演歌を歌う者が現れ、彼らは「演歌屋」と呼ばれました(*7)。演歌屋は高市(祭りや縁日)や都会の盛り場(東京の浅草、大阪の道頓堀・千日前、名古屋の大須観音など)で営業しました(*8)。

 演歌壮士は政治活動の為に演歌を歌い、一方の演歌屋は営利事業の為に演歌を歌ったのです。

 その後、ある新聞(三流紙)が演歌屋のことを「演歌師」と記したことで、演歌師という言葉が広がっていきました(*3)。

 演歌師とは演歌屋の別名だったのです(*3) (*8)。

 「関口」一門(関口愛治系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)の始祖である関口愛治も若かりし頃、1910年(明治四十三年)~1914年(大正三年)、テキヤ組織「飴徳一家」(初代:竹内徳次郎)内の桜井庄之助率いるグループの関係者として、横浜で演歌師として活動していました(*9)。1914年(大正三年)関口愛治は演歌師としての活動拠点を浅草に移しました(*9)。

 桜井庄之助も横浜において演歌師として活動していました(*10)。桜井庄之助の妻(つる)も演歌師で、「桜井のおつるさん」と呼ばれました(*11)。一方、横浜時代の桜井庄之助は、飴徳一家内で筆販売を手掛けていました(*9)。桜井庄之助が「筆販売を手掛けつつ同時に演歌師をしていた」のか、もしくは「どちらか一方を先にしていた後にもう一方をしていた」のかは不明です。

 桜井庄之助は1921年(大正十年)、竹内徳次郎(飴徳一家初代)の引退に伴って、飴徳一家から「一家名乗り」をし、沼津で「桜井一家」を興しました(*9)。

 演歌師の倉持忠助は1922年(大正十一年)以降、テキヤ組織「飯島一家」(飯島一門の宗家組織)の初代・飯島源次郎から「一家名乗り」をし、「倉持一家」(演歌師の組織)を結成しました(*12) (*13) (*14)。結成当初の倉持一家には、倉持忠助の配下として、12~13人の構成員がいました(*12)。

 倉持一家は歌本の出版も手掛けました(*10) (*12)。倉持一家はネタ元(歌本の卸)になったのです。先述したようにランプ屋の武井が死去した後、団子屋の岩田専助が唯一のネタ元となり、歌本の卸業を独占していました。しかし倉持一家が新たにネタ元になったことで、団子屋の岩田専助の独占が崩れました。

 1928年(昭和三年)頃、団子屋の岩田専助が死去しました(*5)。その後、倉持忠助が岩田専助の歌本の卸事業を買収しました(*5)。倉持忠助の勢力が唯一のネタ元になり、歌本の卸業を独占しました(*5)。後年倉持忠助は、歌本の卸業を花沢渓泉に継がせました(*5)。

 倉持忠助は飯島一家の山田春雄の舎弟でした(*12)。山田春雄は、初代・飯島源次郎の実子分でした(*14)。実子分とは「実子に相当する者」という意味で、テキヤ業界では跡目候補を指しました(*15)。結局、山田春雄は飯島一家の跡目をとれず、「分家名乗り」をし、1912年(大正元年)「山春組」を興しました(*16)。山春組の主な収入源は興行関係でした(*16)。

 ちなみに倉持忠助の俳号(俳名)は「倉持愚禅」でした(*17)。

 太平洋戦争終了後、飯島一門には「柿沼楽団」という演歌師グループが活動していました(*18)。柿沼楽団は政治結社「桜誠会」を興しました(*18)。

 当時のテキヤ組織が音楽業界と近かったことが分かります。

<引用・参考文献>

*1 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p123-124

*2 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p155

*3 『生活史叢書14 演歌師の生活』(添田知道、1994年、雄山閣),p24

*4 『生活史叢書14 演歌師の生活』,p16-19

*5 『生活史叢書14 演歌師の生活』,p94-96,104-105,233

*6 『生活史叢書14 演歌師の生活』,p120-121

*7 『生活史叢書14 演歌師の生活』,p20-22

*8 『生活史叢書14 演歌師の生活』,p25

*9 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p31-33,39

*10 『生活史叢書14 演歌師の生活』,p111,229

*11 『生活史叢書14 演歌師の生活』,p173-174

*12 『生活史叢書14 演歌師の生活』,p227-228

*13 『生活史叢書3  てきや(香具師)の生活』(添田知道、1973年、雄山閣),p336-338

*14 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社),p333

*15 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p30

*16 『公安大要覧』,p336

*17 『生活史叢書14 演歌師の生活』,p101

*18 『公安百年史 - 暴力追放の足跡』(藤田五郎編著、1978年、公安問題研究協会),p713

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