ヤクザ組織は過去、音楽ビジネスに関与していました。「飯島一門」(飯島系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)の倉持一家は「演歌師の組織」として結成されました(*1)。
演歌師は「演歌屋」の別名でした(*2)。演歌屋は街頭で演歌を歌い、その歌本(別名:ネタ本)を販売することで収益を得ていました(*2)。歌本には歌詞が刷られていました(*3)。
演歌屋は高市(たかまち)や都会の盛り場(東京の浅草、大阪の道頓堀・千日前、名古屋の大須観音など)の街頭で営業しました(*2)。高市とは、社寺の祭礼や縁日における仮設露店市のことでした(*4)。演歌屋とテキヤ組織は接点を持っていたのです。
演歌屋は歌本を卸から買っていました(*5)。歌本の卸は「ネタ元」と呼ばれていました(*5)。
先述の倉持一家は、演歌師業を主な収入源としていました(*1)。また倉持一家は歌本の出版も手掛け、ネタ元となりました(*1)。
「関口一門」(関口愛治系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)の始祖・関口愛治も若い頃、演歌師として活動していました(*6)。
太平洋戦争終了(1945年)後の1955~1964年、興行会社及び芸能会社は2,000社以上あったとされています(*7)。2000社の7割はヤクザ組織系列の会社であり、ヤクザ組織系列の場合「組織実態のない会社」も多かったようです(*7)。ヤクザ組織系列会社として有名だったのが神戸芸能社(山口組系)や自由芸能社(松葉会系)でした(*7)。
神戸芸能社は山口組興行部を前身とし、1957年設立(正式登記は1958年)されました(*8)。神戸芸能社の社長には、山口組組長・田岡一雄が就きました(*8)。当時の神戸芸能社は、美空ひばりらの有名歌手の興行権を独占していました(*7)。当時は、神戸芸能社の許可なしには美空ひばりのコンサートは開催できませんでした。また1958年-には「ひばりプロダクション」が設立され、社長には美空ひばり、副社長には田岡一雄が就きました(*9)。山口組は美空ひばりの歌手ビジネスに大きく関わっていたことが分かります。
自由芸能社は木津正雄(松葉会副会長)によって設立されました(*7)。自由芸能社は東北六県における興行を仕切っていました(*7)。東北六県で歌謡ショー等を行う興行主は、自由芸能社から事前に許可をとる必要がありました(*7)。
1965年以降、警察庁によるヤクザ組織に対する取締り強化の一環で、ヤクザ組織系列会社は公共施設を使用できなくなりました(*10)。公共施設利用禁止による営業損失は大きく、ヤクザ組織系列会社は次第に消えていきました(*10)。
海外のアウトロー組織も音楽ビジネスに関与していました。ニューヨーク五大ファミリーの1つであるジェノヴェーゼ・ファミリーの幹部だったモリス・レヴィは、廃盤レコートビジネスを稼業の1つとしていました(*11)。廃盤レコードとは、レコード会社が生産をやめたレコードのことです(*11)。廃盤レコードの流通量は限られる為、自ずと価値は高まりやすいです。
<引用・参考文献>
*1 『生活史叢書14 演歌師の生活』(添田知道、1994年、雄山閣),p227-229
*2 『生活史叢書14 演歌師の生活』, p21-25
*3『生活史叢書14 演歌師の生活』, p18
*4 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書), p44
*5『生活史叢書14 演歌師の生活』, p94
*6 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p32-33
*7 『興行界の顔役』(猪野健治、2004年、ちくま文庫), p86-87
*8 『興行界の顔役』, p77
*9 『俠拳 関西右翼・ヤクザ関係秘史』(若野康玄、2021年、徳間書店), p142
*10 『興行界の顔役』, p95
*11 『東京レコ屋ヒストリー』(若杉実、2016年、シンコーミュージック・エンタテイメント), p351-352
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