海水浴場にも進出していたテキヤ組織

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 テキヤ組織に属する露店商は、「高市(タカマチ)」と呼ばれた縁日や祭りに出店し、収益を上げていました (*1)。一方、テキヤ組織の露店商は、駅前広場や盛り場の路上においても露店商売を日常的にしていました (*2)。テキヤ業界では駅前広場や盛り場の路上にて露店商売を日常的にすることを「ヒラビ」と呼びました(*2)。つまりヒラビとは常設露店のことでした。

 太平洋戦争終了(1945年)からしばらく経た後、日本において常設露店は禁止になりました(*3)。

 連合国軍総司令部(GHQ:General Headquarters)は1949年8月4日、東京都と警視庁に対し「翌年3月31日までに三多摩と島嶼を除く都内の公道から露店を撤去すること」を指示しました(*4)。翌月(1949年9月)、都知事、警視総監、消防総監は連名で、道路上の露店(常設露店)に対し撤去通告をしました(*5)。

 実際、1950年から1951年にかけて東京都の一部(東京都の中で三多摩と島嶼を除く地域)で常設露店が無くなりました(*5)。

 テキヤ組織は海水浴場でも露店商売を行っていました(*6)。「丁字家」系のテキヤ組織は葉山町の森戸海岸、鎌倉市の材木座、逗子などの海水浴場に出店の権利を持っていました(*6)。

 テキヤ組織「早川一家」は鎌倉市を拠点に活動していました(*7)。

<引用・参考文献>

*1 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p154-155

*2 『新・ヤクザという生き方』「全丁字家誠心会芝山一家物語」(朝倉喬司、1998年、宝島社文庫), p204-206

*3 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房),p23,184

*4 『台湾人の歌舞伎町 ― 新宿、もうひとつの戦後史』(稲葉佳子・青池憲司、2024年、ちくま文庫), p121

*5 『東京のヤミ市』(松平誠、2019年、講談社学術文庫), p166-167

*6 『新・ヤクザという生き方』「全丁字家誠心会芝山一家物語」, p219-220

*7 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社),p391

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