高市(たかまち)で露店を出す際、売上を左右するのが「立地」でした。高市とは、社寺の祭礼や縁日に仮設される露店市のことでした(*1)。高市のほとんどは、1年ごともしくは1カ月ごとに開催された定期門前市でした(*1)。
露店の位置決めは「ショバ割り」と呼ばれました(*2)。または「ミセワリ」とも呼ばれました(*3)。最も良い場所は「ホンドバ」、最も悪い場所は「ガリ」と呼ばれて、両者の売上は数十倍異なりました(*2)。
ショバ割り実施日は、小さい規模で高市の当日朝、大きい規模で高市の20日ほど前でした(*2)。ショバ割りでは、同じ種類の商品の店舗が並ばないように配置されました(*4)。基本的には庭主(その高市を仕切る地元テキヤ組織の親分)がショバ割りの裁量権を持っていました(*5)。
戦前(1941年以前)の渋谷道玄坂における常設露店市の場合、ある時まで、出店場所が毎日1軒ずつ移動するという露店配置方法(「一枚上り」と呼ばれていました)がとられていました(*6)。その後、渋谷道玄坂では一枚上りは廃止され、テキヤ組織の世話役が毎日、露店配置決めを行いました(*6)。
高市に話を戻すと、テキヤ組織間の力関係がショバ割りに反映されることもありました(*7)。
また警察当局が露店配置決めを行う場合もありました(*5)。
昭和40年代(1965~1974年)、北海道全域において警察官が高市のショバ割りをしていました(*8)。仙台の七夕祭りでも警察当局が露店配置決めをしていました(*9)。「長崎くんち」(諏訪神社の秋季大祭)では1978年以降、長崎警察署が抽選方式で露店配置決めをしていました(*10)。
また警察当局は「申請の受付順」に露店を配置していく方法もとっていました(*9)。警察当局による露店配置決めは「サツ割り」と呼ばれました(*10)。
高市において出店露店商は「庭主組織が売る商品」を避けて営業することが「暗黙の了解」としてありました(*9)。
出店露店商は場所代を庭主組織に払いました(*1)。場所代は概ね、高市の総経費÷出店数で求められました(*1)。この計算方法では、ホンドバ(最も良い場所)に出店した露店商とガリ(最も悪い場所)に出店した露店商の払う場所代は同額だったのです。
先述の長崎くんちでは1977年以前、場所代は1店舗あたり6千円でした(*10)。1985年頃の北関東M市の初市では、場所代は5千円でした(*11)。
先述の戦前(1941年以前)の渋谷道玄坂における常設露店市の場合、露店商は「月掛け(がけ)」(毎月の会費)50銭をテキヤ(露店商)の組合に払い、また電気代も払いました(*6)。渋谷道玄坂における常設露店市の場合、場所代はなかったようです。
2012年時の情報において、場所代は、関東では1日1万円、関西では1日1.5万といわれていました(*12)。
高市において露店商は、料金等を概ね現金で決済していました(*9)。
また「出来たかまち(臨時の催事における仮設露店市)」では、2~3人の親分が共同で露店配置決めを行う場合もありました(*13)。
<引用・参考文献>
*1 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書),p44-45
*2 『ヤクザ大辞典』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫), p98-100
*3 『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(厚香苗、2014年、光文社新書), p145-146
*4 『ヤクザ大辞典 親分への道』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫), p168
*5 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p157
*6 『社会学選書⑪ 露店研究』(横井弘三、2021年、いなほ書房),p161
*7 『間道 – 見世物とテキヤの領域』(坂入尚文、2006年、新宿書房),p159
*8 『香具師はつらいよ』(北園忠治、1990年、葦書房),p258
*9 『テキヤのマネー学』(監修:仲村雅彦、取材・構成:高橋豊、1986年、東京三世社),p56-57
*10 『香具師はつらいよ』,p233,241
*11 『テキヤのマネー学』,p14,25
*12 『GEKIDAS 激裏情報@大事典vol.5』(激裏情報、2012年、三才ブックス), p82
*13 『生活史叢書3 てきや(香具師)の生活』(添田知道、1973年、雄山閣),p151,330
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