チーハー

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 チーハーとは、「文字遊戯」の賭博であり、中国で生まれました(*1)。その後チーハーは朝鮮で流行り、明治初年に横浜や神戸などの外国人居留地の南京街に入ってきました(*1)。

 第二次世界大戦前まで、外国人居留地の南京街は、華僑密集地域(チャイナタウン)を指しました(*2)。また華僑密集地域は「支那街(しなまち)」とも呼ばれました(*2)。横浜では1859年(横浜開港)から1899年(外国人居留地廃止)まで、華僑は外国人居留地内で生活しなければなりませんでした(*3)。

 チーハーでは客は賭場に行かず、運送役が客の自宅に「筋(すじ)紙」(解答用紙)と「付和(ふわ)紙」(出題用紙)を届け、賭金を徴収しました(*4)。

 また運送役は勝ち客から「賞金の2割」、胴元から「4%の手数料」をもらいました(*5)。

 後に日本の博徒組織がチーハーを手掛けるようになりました(*6)。神戸では1892年(明治二十五年)頃、「兵庫の芋作」なる博徒がチーハーを牛耳りました(*6)。その後、チーハーは大阪でも流行しました(*6)。大阪では日清戦争(1894~1895年)除隊の軍人がチーハーを仕切りました(*6)。

 1897年(明治三十年)博徒組織「落合一家」の貸元・熊木勇五郎はチーハーを提供していました(*7)。

 また戦前(1941年以前)の「住吉一家」でもチーハーを提供していました(*8)。

 ちなみに現代の日本では刑法第185条(賭博罪)及び第186条(常習賭博罪)により、営利及び非営利において賭博行為全般が禁止されています(*9)。ただし特別法によって公営ギャブル(競馬、競輪、競艇、オートレース)だけは認められています(*9)。

<引用・参考文献>

*1 『日本賭博史』(紀田順一郎、2025年、ちくま学芸文庫), p170

*2 『横浜中華街 世界に誇るチャイナタウンの地理・歴史』(山下清海、2021年、筑摩選書),p41

*3 『横浜中華街 世界に誇るチャイナタウンの地理・歴史,p44

*4 『日本賭博史』, p175

*5 『日本賭博史』, p176

*6 『日本賭博史』, p178-179

*7 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』(藤田五郎編集、1972年、徳間書店), p143-145

*8 『任俠百年史物語Ⅰ 関東稲妻親分衆』(藤田五郎、1980年、笠倉出版社),p287

*9 『スポーツと賭博』(相原正道、2025年、新潮新書),p37

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