カリブ海のバハマでは1970年代後半から重曹フリーベース(baking-soda freebase)が流行していきました(*1)。フリーベースは、吸煙用のコカイン系薬物でした(*2)。
コカイン(コカイン塩酸塩)に強力なアルカリを加え、次にそれを強力なエーテル系溶剤で溶かし、結晶化させたものがフリーベースでした(*2)。重曹フリーベースでは、製造時のアルカリとして、重曹が用いられました(*1)。
コカインそのもの(コカイン塩酸塩)は熱に弱く、火が点くと機能しなくなりました(*2)。つまりコカインそのものでは、吸煙での摂取が困難だったのです。
重曹フリーベース流行の背景には、コカインの大量流通により「コカインに飽きてしまった層」がバハマにおいて出現したことが挙げられます(*1)。
当時(1970年代後半)のバハマは「コカインの積み替え地」であり(*3)、バハマではコカインが大量に流通していました(*1) (*3)。元々バハマは、1973年の独立以降、「南米産マリファナ(乾燥大麻)の積み替え地」でもありました(*4)。
バハマは1973年イギリスから独立しました(*4) (*5)。バハマは700もの島々で構成される群島で、またこの群島の範囲は広いです(*6)。このバハマの地形は、密輸の取締りを難しくしていました(*6)。
アメリカ合衆国コネチカット州ダンベリーの連邦刑務所内で、アメリカ合衆国人のジョージ・ユング(George Jung)はコロンビア人のカルロス・エンリケ・レデル・リバス(Carlos Enrique Lehder Rivas)に(*7)、小型飛行機でコカインをコロンビアからアメリカ合衆国に密輸する」という計画を提案しました(*8)。カルロス・レデルはその計画に同意しました(*8)。
ジョージ・ユングは元々マリファナの密輸ビジネスを手掛けていました(*7)。ジョージ・ユング(1942年生まれ)は1965年カリフォルニア州ロングビーチで暮らしていました(*7)。当時(1965年)南ロサンゼルスの末端市場においてマリファナ1kgは60米ドルで売られていました(*7)。同年(1965年)のある日、一人の友人から「マサチューセッツ州の大学ではマリファナ1kg 分が300米ドルで売られている」という情報をジョージ・ユングは聞かされました(*7)。
カリフォルニア州は太平洋沿岸にあり、一方マサチューセッツ州は大西洋沿岸にあります。両州のマリファナ販売価格には、大差があったのです。裁定取引が可能でした。ジョージ・ユングはその価格差に商機を見出し、マリファナ密輸ビジネスを始めたのです(*7)。
まずジョージ・ユングはリチャード・バリル(Richard Barile)という人物からマリファナを大量に仕入れました(*7)。リチャード・バリルは、カリフォルニア州ロサンゼルス郡マンハッタンビーチでヘアサロンを営んでいました(*7)。ジョージ・ユングは仕入れたマリファナをマサチューセッツ州に送りました(*7)。当初ジョージ・ユングはマリファナをスーツケースに詰め込む方法で密輸していました(*7)。その後ジョージ・ユングは数人の客室乗務員(航空会社)を引き込み、その客室乗務員らにマリファナを運ばせていました(*7)。結果的にその客室乗務員らは充分な量のマリファナを運ぶことができませんでした(*7)。
その後ジョージ・ユングはマリファナ密輸ビジネスを拡張すべく、メキシコからマリファナを仕入れました(*7)。ジョージ・ユングはメキシコでマリファナを1kgあたり8~10米ドルで仕入れることができました(*7)。ジョージ・ユングは小型飛行機でメキシコ産マリファナをアメリカ合衆国まで運びました(*7)。
後にジョージ・ユングは逮捕され、1974年に懲役4年の判決を受けました(*7)。そしてダンベリーの連邦刑務所に服役しました(*7)。
カルロス・レデルは4年の懲役刑を受けて、ダンベリーの連邦刑務所にいました(*7)。カルロス・レデルは元々、自動車の窃盗をしていました (*7)。カルロス・レデルの兄であるギジェルモ(Guillermo)はコロンビアで自動車販売店を営んでいました(*7)。カルロス・レデルはアメリカ合衆国からコロンビアに自動車を送ることで、兄の事業を手伝っていました(*7)。その際、この兄弟は「輸入税」を支払っていませんでした(*7)。その後、カルロス・レデルは盗難車であれば、さらに利幅をとれると考え、自動車窃盗を手掛けていくようになったのです(*7)。
その後、出所した2人は計画を実行に移そうとするものの、コロンビアからアメリカ合衆国への輸送において、小型飛行機の燃料が足りないことが明らかになりました(*8)。
解決策として「バハマ経由ルート」がとられました(*8)。具体的には「まずマイアミ(フロリダ州)からバハマに小型飛行機が飛びます。次に、バハマで週末を過ごすふりをして、実際はコロンビアに飛んでコカインを積みます。そして日曜日の夜までにバハマに戻る」というものでした(*8)。1977年8月この計画(バハマ経由ルートのコカイン密輸)が初めて実行され、250kgのコカインが密輸されました(*8)。この密輸(1977年8月)ではバリー・ケイン(Barry Kane)という人物がパイロットを務めました(*8)。
その密輸の成功により、ジョージ・ユングとカルロス・レデルは100万米ドルを手にしました(*8)。
同時期、カルロス・レデルはバハマの「ノーマンズケイ」(Norman’s cay)という島に目をつけました(*9)。ノーマンズケイは、エグズーマ諸島の北端に位置する全長8kmの島で、首都ナッソーの南東70kmに位置しています(*10)。1977年の夏、カルロス・レデルはノーマンズケイを訪れていました(*10)。
カルロス・レデルはノーマンズケイを「新たなコカインの密輸拠点」にしようと考えたのです(*9)。加えてカルロス・レデルは、ジョージ・ユングをノーマンズケイには関わらせないことを決めました(*9)。
当時、島(ノーマンズケイ)には10軒ほどの家しかなかったです(*10)。カルロス・レデルは全ての家の購入を図りました(*10)。最終的に元の住民は全員、島から去りました(*11)。
またカルロス・レデルは島のゲストハウス、バー、仮設滑走路の権利を手に入れました(*10)。
ノーマンズケイはコカインの密輸拠点になりました(*11)。そしてカルロス・レデルは、ノーマンズケイからアメリカ合衆国にコカインを送りました(*12)。
コロンビア麻薬組織「メデジン・カルテル」(Medellín Cartel)のパブロ・エスコバル(Pablo Escobar)は、ノーマンズケイを訪れ、カルロス・レデルの密輸ビジネスを視察しました(*12)。視察の結果、パブロ・エスコバルは、カルロス・レデルを「密輸の差配を任せられる人物」であると評価しました(*12)。カルロス・レデルは、メデジン・カルテルの密輸リーダーとなりました(*12)。
つまりノーマンズケイは「メデジン・カルテルの密輸拠点」となったのです。そしてメデジン・カルテルはノーマンズケイを中継地にして、コカインをアメリカ合衆国に送っていったのです。
しかしカルロス・レデルはコカインの摂取を始め、後にひどい妄想症になってしまいました(*11)。
バハマ警察は1979年春まで、ノーマンズケイに注意を払っていませんでした(*12)。同年(1979年)6月ノーマンズケイの元住民リチャード・ノヴァク(Richard Novak)は、ナッソーのアメリカ合衆国大使館を訪れ、カルロス・レデルやその配下らの写真を提供しました(*13)。その後アメリカ合衆国大使館は、その写真を本国の麻薬取締局に渡しました(*13)。
1979年9月14日バハマ警察は初めてノーマンズケイを捜査しました(*13)。これは「ラクーン作戦」(Operation Raccoon)と呼ばれました(*13)。ラクーン作戦は「空振り」に終わりました(*13)。また同年(1979年)12月、当局はカルロス・レデルにノーマンズケイから出ていくように伝えましたが、カルロス・レデルはノーマンズケイに居続けました(*13)。
翌1980年バハマ警察は再びノーマンズケイを捜査しました(*14)。これは「デイビッド作戦」(Operation David)と呼ばれました(*14)。しかしカルロス・レデルは事前にデイビッド作戦の情報を得ており、捜査前にノーマンズケイから証拠となるものを消していました(*14)。デイビッド作戦後も、カルロス・レデルはノーマンズケイでコカインを密輸し続けました(*14)。
1981年バハマ警察はノーマンズケイに常駐部隊を置きました(*14)。しかしその常駐部隊はカルロス・レデルのグループに協力していました(*14)。
一方アメリカ合衆国の麻薬取締局は、1982年までに、カルロス・レデルの引き渡しを申請しました(*14)。カルロス・レデルはアメリカ合衆国麻薬取締局の代理人と会い、自身の訴追が全て免除されたら、「ノーマンズケイを割安の500万米ドルで売り渡す」という提案をしました(*14)。しかしアメリカ合衆国麻薬取締局側はこの提案を受け入れませんでした(*14)。
最終的にカルロス・レデルは1984年8月ノーマンズケイを出ていくことになりました(*14)。
先述したように、カルロス・レデルはメデジン・カルテルに属していました。つまり1980年代前半までメデジン・カルテルはノーマンズケイを中継地にして、コカインをアメリカ合衆国に送り続けていたのでした。
カルロス・レデルがノーマンズケイに長く居続けられたのは、バハマ政府に賄賂を贈っていたからでした(*14)。
先述したように、ジョージ・ユングとカルロス・レデルが「バハマ経由ルートのコカイン密輸」を初めて実行した際(1977年8月)、パイロットを務めたのがバリー・ケインという人物でした。バリー・ケインは弁護士でした(*14)。
バリー・ケインは、カルロス・レデルにバハマの悪徳弁護士ニゲル・ボウ(Nigel Bowe)を紹介しました(*14)。ニゲル・ボウは「仲介役」となり、ノーマンズケイの密輸事業が取り締まられないようにバハマの高官に賄賂を贈りました(*14)。
またバリー・ケインは、カルロス・レデルに悪名高い金融詐欺師ロバート・ヴェスコ(Robert Vesco)を紹介しました(*14)。ロバート・ヴェスコもまた、バハマの悪徳公務員(警察の取締りに関与できる人物)をカルロス・レデルに紹介しました(*14)。
またカルロス・レデルからの賄賂は、バハマの首相リンデン・オスカー・ピンドリング(Lynden Oscar Pindling)にも行っていたという疑惑が浮上しました(*15) 。ピンドリングは、独立前の1967年、首相の職に就きました(*15)。1973年の独立時もピンドリングが首相でした(*15)。
真実を明らかにするため、1984年バハマで「王立調査委員会」(Royal Commission of Enquiry)が発足しました(*15)。
王立調査委員会は、「ピンドリング首相の支出」が「正当な収入」を大幅に上回っていたことを明らかにしました(*15)。また王立調査委員会は、カルロス・レデルがノーマンズケイで活動していた期間(1977~1984年)、ピンドリング首相が250万米ドル超を「非公開の贈与」として受取っていたことも明らかにしました(*15)。
しかし王立調査委員会は最終的に「ピンドリング首相が違法薬物ビジネスのお金を直接受け取ったという証拠はない」と結論づけました(*15)。
結局ピンドリングは1992年まで首相を続けました(*15)。
1987年2月コロンビア警察は、アンティオキア県リオネグロの牧場でカルロス・レデルを逮捕しました(*16)。同年(1987年)5月19日カルロス・レデルは全ての罪状で有罪と認定され、終身刑(さらに135年の懲役刑が足された上に仮釈放はなし)の判決を受けました(*17)。
<引用・参考文献>
*1 『Cocaine: An Unauthorized Biography』(Dominic Streatfeild,2003,Picador), p281-282
*2 『Cocaine: An Unauthorized Biography』, p272-274
*3 『Cocaine: An Unauthorized Biography』, p271
*4 『Cocaine: An Unauthorized Biography』, p270
*5 『エリア・スタディーズ157 カリブ海世界を知るための70章』「政治体制の多様性と旧宗主国との関係 継承した体制と独自の体制の並存」(石垣泰司、2017年、明石書店),p208
*6 アメリカ合衆国国務省(United States Department of State)サイト
「2025 International Narcotics Control Strategy Report - Volume1:Drug and Chemical Control」(2025),p131
*7 『Cocaine: An Unauthorized Biography』, p212-214
*8 『Cocaine: An Unauthorized Biography』, p218
*9 『Cocaine: An Unauthorized Biography』, p219
*10 『Cocaine: An Unauthorized Biography』, p222-223
*11 『Cocaine: An Unauthorized Biography』, p224-225
*12 『Cocaine: An Unauthorized Biography』, p265
*13 『Cocaine: An Unauthorized Biography』, p266
*14 『Cocaine: An Unauthorized Biography』, p267
*15 『Cocaine: An Unauthorized Biography』, p268-269
*16 『Cocaine: An Unauthorized Biography』, p354
*17 『Cocaine: An Unauthorized Biography』, p356
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