キューバのフルヘンシオ・バティスタ(Fulgencio Batista)第2次政権時代(1952~1959年)(*1)、「アメリカ合衆国向けのヘロイン(heroin)」はキューバを経由していました (*1)。キューバ経由アメリカ合衆国向けの密輸経路は「フレンチ・コネクション」(French Connection)の一環でした(*1)。ちなみにキューバではヘロインは流行りませんでした(*1)。
フレンチ・コネクションとは、当時の「ヘロイン供給網」(地中海からアメリカ合衆国向け)のことで(*2)、フランスのマルセイユが拠点でした(*3)。ヘロインは主にフランスのマルセイユで密造されていました(*4)。
主にマルセイユのコルシカ系アウトロー組織が、フレンチ・コネクションのビジネスを仕切っていました(*5)
コルシカ島出身のフランソワ・スピリトとポール・カルボーンは1920年からマルセイユの裏社会で台頭していきました(*5)。
第2次世界大戦中、ナチス・ドイツはフランスを占領しました(*5)。その後、マルセイユではナチス・ドイツに対するレジスタンス(抵抗)運動が起こりました(*5)。共産党がマルセイユのレジスタンス運動を仕切っていました(*5)。ナチス・ドイツ側はレジスタンス運動を潰す為、マルセイユのコルシカ系アウトロー組織を用いました(*5)。
しかし後にナチス・ドイツが敗れ、フランスから撤退すると、フランソワ・スピリトはスペインに逃亡し、ポール・カルボーンはレジスタンス運動側に殺害されました(*6)。その後、アントワーヌ・ゲリニとバーテルミ・ゲリニの兄弟がマルセイユのコルシカ系アウトロー組織業界で台頭していきました(*6)。
フレンチ・コネクションではカナダのモントリオール(ケベック州)も経由地の1つでした(*2)。モントリオール経由アメリカ合衆国向けの密輸経路を開拓したのは、隣国(アメリカ合衆国)のボナンノ(Bonanno)・ファミリーでした(*2)。ボナンノ・ファミリーは、ニューヨーク市の五大ファミリー(Five Families)の1つでした(*7)。五大ファミリーは全て「コーザ・ノストラ」(La Cosa Nostra)でした(*7)。コーザ・ノストラは、アメリカ合衆国のシチリア系アウトロー組織の別名でした(*8)。
1953年ボナンノ・ファミリーはモントリオール経由の密輸経路を設け、モントリオールの担当としてコトローニ(Cotroni)・ファミリーを選びました(*2)。コトローニ・ファミリーはカラブリア系アウトロー組織でした(*2)。このヘロイン密輸ビジネス等によりコトローニ・ファミリーの首領ヴィック ・“ザ・エッグ”・コトローニ(Vic “the Egg” Cotroni)は経済的に豊かになりました(*2)。
当時のフレンチ・コネクションにおいて、マルセイユなどで密造されたヘロインが、キューバやカナダのモントリオールなどを経由し、アメリカ合衆国に供給されていたことが分かります。
当時アメリカ合衆国において最大消費量の違法薬物はヘロインでした(*1)。また1950年代アメリカ合衆国ではヘロインの消費量が急増していました(*1)。1952年までにアメリカ合衆国のヘロイン依存症者数は、第2次世界大戦の前に比し、300%増加していました(*3)。つまりアメリカ合衆国のヘロイン依存症者数は、第2次世界大戦の前に比し、4倍増加したのです。
フレンチ・コネクションによりヘロインは安定的に供給され、結果アメリカ合衆国内におけるヘロインの流通量は増加しました(*1)。この流通量の増加が、1950年代の消費量急増の一因と考えられました(*1)。
アメリカ合衆国フロリダ州の「タンパ・ファミリー」(Tampa Family)は1940年以前から、マルセイユやコルシカ島のアウトロー組織と共に、違法薬物ビジネスを行ってきました(*9)。タンパ・ファミリーの拠点は、その名の通り、フロリダ半島西岸の都市タンパでした(*9)。
タンパ・ファミリーではイグナシオ・アンティノリ(Ignacio Antinori)が1920年代までは最高指導者の地位にいましたが、その後サント・トラフィカンテ(Santo Trafficante)がタンパ・ファミリー内で実権を握っていきました(*9)。1940年イグナシオ・アンティノリは殺害されました(*9)。
1940年以降も、サント・トラフィカンテ体制のタンパ・ファミリーは、マルセイユやコルシカ島のアウトロー組織と共に、違法薬物ビジネスをし続けました(*9)。おそらくタンパ・ファミリーは、フレンチ・コネクションから、ヘロインを仕入れていたと考えられます。サント・トラフィカンテは1886年シチリア島で生まれ、18歳の時からタンパで暮らしていました(*9)。
加えてサント・トラフィカンテ体制のタンパ・ファミリーは、賭博事業に進出しました(*9)。サント・トラフィカンテは、キューバの都市ハバナでカジノ事業を行う為、1946年実子のサント・トラフィカンテ・ジュニア(Santo Trafficante Jr)をハバナに送り込みました(*9)。当時(フルヘンシオ・バティス第2次政権時代)のキューバでは賭博は合法でした(*1)。サント・トラフィカンテ・ジュニアは1959年までキューバでカジノ事業を営みました(*9)。
サント・トラフィカンテはタンパとは反対側のフロリダ半島東岸の進出を図りました(*9)。しかし東岸はマイヤー・ランスキー(Meyer Lansky)の牙城でした(*9)。マイヤー・ランスキーはポーランドのグロドノ(現在はベラルーシのフロドナ)出身のユダヤ人で、アメリカ合衆国の裏社会においてシチリア系アウトロー組織からも一目置かれていました(*10)。
マイヤー・ランスキーは1930年代以降、アメリカ合衆国アウトロー組織業界では、シチリア人のラッキー・ルチアーノ(Lucky Luciano)と並ぶ「顔役」(godfather)でした(*10)。
1920年代マイヤー・ランスキーはバグジー・シーゲル(Bugsy Siegel)とともにギャング団を結成しました(*10)。当時のアメリカ合衆国は、禁酒法(1920~1933年)の時代でした(*11)。マイヤー・ランスキーらのギャング団は酒の強奪を資金源にする一方で、酒密輸業者の保護も請け負っていました(*10)。またマイヤー・ランスキーらのギャング団は「抹殺業務」も請け負っていました(*10)。
盟友バグジー・シーゲルは、ラスベガスのホテルにおける「組織の金」を多額に使い込んだことにより、1947年殺害されました(*10)。殺害前、マイヤー・ランスキーは「バグジー・シーゲルの殺害案」に対し積極的に賛成していたとされています(*10)。
つまりフロリダ半島東岸は、アメリカ合衆国アウトロー組織業界の「顔役」により仕切られていたのでした。結局サント・トラフィカンテは東岸の進出を諦め、西岸に戻りました(*9)。
マイヤー・ランスキーはキューバにおいても「最高実力者」として君臨していました(*9)。キューバにおいてタンパ・ファミリーは「ジュニア・パートナー」の位置づけでした(*9)。
フレンチ・コネクションに話を戻すと、先述したシチリア人のラッキー・ルチアーノが「知恵袋」の役割を果たしていました (*1)。ラッキー・ルチアーノはシチリアのパレルモ県の小村レルカーラ・フリッディに生まれ、後にアメリカ合衆国に移住しました(*12)。
ラッキー・ルチアーノは1943年時、アメリカ合衆国で服役していました(*12)。ラッキー・ルチアーノは強制売春の罪により、30~50年の懲役刑を受けていたのです(*12)。しかし1946年ラッキー・ルチアーノは釈放され、同時に国外追放されました(*12)。
実はラッキー・ルチアーノは連合国軍のシチリア侵攻(1943年)に協力していたのです(*3) (*12)。シチリア侵攻の数カ月前、アメリカ合衆国海軍情報部は十数回、ラッキー・ルチアーノに接触していました(*12)。ラッキー・ルチアーノの「報酬」は条件付きの減刑でした(*3)。条件とは「イタリアに行き、そしてアメリカ合衆国には戻らない」というものでした(*3)。
その後ラッキー・ルチアーノはイタリアのナポリで暮らしました(*13)。ラッキー・ルチアーノは地元ナポリのアウトロー組織「カモッラ」(Camorra)と手を組みました(*13)。加えてラッキー・ルチアーノはマルセイユやコルシカ島の裏社会とネットワークを構築し、煙草の密輸、違法薬物ビジネスを行っていきました(*13)。カモッラもそのネットワークに乗って、煙草の密輸、違法薬物ビジネスを行いました(*13)。
先述したようにラッキー・ルチアーノは、1930年代以降マイヤー・ランスキーとともに、アメリカ合衆国アウトロー組織業界の「顔役」でした。第2次世界大戦後もラッキー・ルチアーノはアメリカ合衆国側に人脈を有していたはずです。シチリア人のラッキー・ルチアーノのネットワーク作りや人脈が、フレンチ・コネクションの形成において大きな役割を果たしたと考えられます。
シチリア系アウトロー組織は1957年以降、アメリカ合衆国向けヘロインの「供給網再編」を仕掛けていきました(*4)。フレンチ・コネクション下では、先述したようにマルセイユがヘロインの「密造」の役割を担い、一方シチリア島のパレルモは「中継地」の役割を担っていました(*4)。
1957年以降は、一転パレルモがヘロインの「密造」の役割を担っていきました(*4)。1979年頃にはシチリア島では約14のヘロイン密造施設があったとされています(*4)。パレルモの密造施設は中東からモルヒネを調達し、ヘロインに精製しました(*4)。
ニューヨーク麻薬局の取締りもあり、結局フレンチ・コネクションは崩壊しました(*14)。そして1960年代前半以降はシチリア系アウトロー組織が、再編した供給網の下で、「アメリカ合衆国向けヘロイン」の密輸ビジネスを牛耳りました(*14)。再編された供給網は「パレルモ・コネクション」(Palermo Connection)と呼ばれました(*14)。
フレンチ・コネクションからパレルモ・コネクションへの移行は、「コルシカ系とシチリア系の間のパワーバランス」が変化したことを示してします。
<引用・参考文献>
*1 『Cocaine: An Unauthorized Biography』(Dominic Streatfeild,2003,Picador), p195-197
*2 『THE MAPLE SYRUP MAFIA A HISTORY OF ORGANIZED CRIME IN CANADA』(GERG THOMPSON、2014、CreateSpace Independent Publishing Platform), p19-20,34-36
*3『Cocaine: An Unauthorized Biography』,p181
*4 『シチリア・マフィアの世界』(藤澤房俊、2009年、講談社学術文庫),p223
*5 『FOR BEGINNERS シリーズ マフィア』(安田雅企、1994年、現代書館),p147-149
*6 『FOR BEGINNERS シリーズ マフィア』,p151-152
*7 Anna Sergi.(2018). New York crime families survive and collaborate. Jane’s Intelligence Review.
*8 『シチリア・マフィアの世界』,p221
*9 『The Mafia Encyclopedia, Third Edition』(Carl Sifakis,2005,Facts On File),p449-450
*10『The Mafia Encyclopedia, Third Edition』,p250-251
*11 『<麻薬>のすべて』(船山信次、2011年、講談社現代新書),p184
*12 『シチリア・マフィアの世界』,p134-135
*13 『シチリア・マフィアの世界』,p224-227
*14 『The Mafia Encyclopedia, Third Edition』,p351
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