1914年(大正三年)以前、博徒組織「佃政一家」と博徒組織「船戸一家」の縄張りの境界線は、日本橋川(神田川の派川)でした(*1)。当時の博徒業界では、縄張りの境界線として、道路や川が用いられることが多かったです(*1)。
船戸一家は、博徒組織「生井一家」の分家でした(*1)。
後に船戸一家は、境界線の日本橋川にて筏を組み、船上で賭場を開帳しました(*1)。船戸一家が日本橋川上で賭場を開帳し続けていけば、「日本橋川(境界線)は船戸一家の縄張り」ということが既成事実化してしまいます。博徒組織における縄張りとは、「賭場の開帳権を行使できる地理的範囲」のことでした(*2)。一方の佃政一家にとって、船戸一家の日本橋川上における賭場開帳は、「縄張り拡大」の動きに映っていたはすです。
船戸一家による日本橋川上の賭場開帳を巡り、1914年12月、佃政一家と船戸一家は抗争寸前の状態まで行きました(*1)。その後、両団体は話し合いの結果、和解に至りました(*1)。話し合いには、生井一家(船戸一家の宗家)も加わりました(*1)。
テキヤ業界では、所属先の組織から「分家」を認められた者には、所属先の組織から庭場(縄張り)の一部が譲渡されました(*3)。庭場を仕切る者は「庭主」と呼ばれました(*4)。庭主は高市(たかまち)において露店配置の権限を持っていました(*4)。高市とは、社寺の祭礼や縁日に仮設される露店市のことでした(*5)。高市のほとんどは、1年ごともしくは1カ月ごとに開催された定期門前市でした(*5)。露店商は高市に出店した際、庭主に場所代(通称:「ショバ代」)を払いました(*5)。場合によっては、庭主のテキヤ組織が、祭りの中日頃、高市の露店を一軒ずつ回って、現金で場所代等を回収しました(*6)。一方、庭主は社寺に「奉納金」という名で場所代を払いました(*7)。テキヤ組織の中には、庭場を持たない組織もありました。コロビ師系のテキヤ組織は庭場を持ちませんでした(*8)。コロビとは「口上付で営業する露店商集団」を指しました(*9)。大正時代(1912~1926年)から昭和時代(1926~1989年)初期にコロビ師勢力は組織化し、またその組織も拡張化していきました(*9)。「極東」「飯島」「寄居」「桝屋」「丁字家」の一門は、コロビ師系勢力を源流としていました(*9)。極東一門(関口一門+桜井一門+飴徳一門)の関口愛治の勢力(関口一家)は庭場を持っておらず、地方の高市を回って、収益を得ていました(*10)。
話を博徒組織・船戸一家に戻します。先述したように船戸一家は「生井一家の分家」でした。博徒業界では「貸元」という役の者が、博徒組織のトップ(関東では「総長」、東海では「総裁」)(*11)から縄張りの一部を預かりました(*12)。大規模な博徒組織には20人以上の貸元がいました(*12)。博徒組織「上萬一家」は、初代・藤江万吉から二代目・藤江万次郎(万太郎)の体制時、36人の貸元(三十六人衆の貸元)を擁していました(*13)。初代・藤江万吉は1897年(明治三十年)5月15日、死去しました(*13)。二代目・藤江万次郎(万太郎)は1912年(明治四十五年)3月20日、病気により死去しました(*13)。貸元は縄張り内の賭場事業を監督し、賭場で上がった収益の一部を総長に上納しました(*12)。
建前上、貸元は縄張りを預かっているだけであり、総長(もしくは総裁)に縄張りの所有権がありました。
関東において、貸元は引退する際、総長に引退することを報告しなければなりませんでした(*14)。その後、総長は一家(1次団体)等で協議をし、貸元の後継者を決めました(*14)。貸元が自身の後継者を単独で指名していたのではなく、1次団体の総長らも後継者指名に関与していたのでした。しかし上記はあくまでも建前であり、一家(1位団体)内において力関係が「貸元達」>「総長」の場合、貸元が「後継者指名権」を実質独占していた場合もあったと考えられます。
東海地区の博徒組織「瀬戸一家」には分家の1つとして「品野派」(品野派トップは貸元級)がありました(*15)。品野派は度々、瀬戸一家(宗家)と抗争をしていました(*15)。品野派など瀬戸一家の分家は、名称的には「瀬戸一家品野派」「瀬戸一家多治見派」等となっており、瀬戸一家内にとどまっていました(*15)。
もしかしたら船戸一家も、実は生井一家内にとどまっており、「生井一家船戸派」という位置づけだったのかもしれません。
一方、佃政一家の初代は金子政吉でした(*1)。金子政吉は佃島生まれで、元は漁師でした(*16)。一方で金子政吉は17、18歳の時、博徒組織「石定一家」(茅場町)に入りました(*16)。石定一家の首領は高橋文吉(通称:石定)でした(*17)。石定一家は築地の魚河岸一帯も縄張りとしていました(*17)。金子政吉は、高橋文吉の「総領子分」でした(*17)。総領子分とは、筆頭子分のことで、山口組でいえば「若頭」に該当しました(*18)。
佃政一家の縄張りは築地、魚河岸、新富町、鉄砲洲から神田今川橋でした(*19)。金子政吉(佃政一家)は石定一家の縄張りの一部を引き継いだのだと考えられます。また金子政吉(佃政一家初代総長)は、歌舞伎の六代目尾上菊五郎(音羽屋)を後援していました(*19)。ちなみに生井一家の貸元・武部申策は歌舞伎の中村吉右衛門(播磨屋)を後援していました(*19)。
三浦繁次郎が佃政一家の二代目を継承しました(*1)。佃政一家は「日本国粋会」(1958年結成)に加盟しました(*20)。
後に稲川会の井上興一が、佃政一家の四代目を継承しました(*21)。この時(井上興一が佃政一家四代目を継承した時)、佃政一家は稲川会に加入したとされています(*21)。
その後、佃政一家出身の田中政吉(金子政吉の子分)が佃政一家五代目を継承しました(*22)。田中政吉は佃政一家五代目総長であるとともに、日本国粋会の理事長補佐も務めていました(*22)。五代目総長(田中政吉)体制下、佃政一家は日本国粋会に加盟していたのです。おそらく四代目総長(井上興一)体制以降、佃政一家は日本国粋会に加盟し続ける一方で、稲川会にも加盟していたということが考えられます。
稲川会出身の富山正一が佃政一家六代目を継承しました(*23)。富山正一は元々、稲川会2次団体「横須賀一家」に所属していました(*23)。後に富山正一は横須賀一家から「京葉七熊一家」(稲川会2次団体)に移籍しました(*23)。そして富山正一は京葉七熊一家から佃政一家に移籍し、六代目を継承したのでした(*23)。
2007年馬場知己(佃政一家総長代行)が佃政一家七代目を継承しました(*24)。
<引用・参考文献>
*1 『関東やくざ者』(藤田五郎、1971年、徳間書店), p10-12
*2 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p61
*3 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p72-73
*4 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p85
*5 『盛り場の民俗史』(神崎宣武、1993年、岩波新書), p44-45
*6 『テキヤの掟 祭りを担った文化、組織、慣習』(廣末登、2023年、角川新書), p36-37
*7 『裏社会の日本史』(フィリップ・ポンス、安永愛 訳、2018年、ちくま学芸文庫), p493
*8 『テキヤの掟 祭りを担った文化、組織、慣習』, p44
*9 『新・ヤクザという生き方』「全丁字家誠心会芝山一家物語」(朝倉喬司、1998年、宝島社文庫), p224-225
*10 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p8-10
*11 『実録 東海の親分衆』(藤田五郎、1979年、青樹社),p270
*12 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p193-194
*13 『親分衆(関東編)』(藤田五郎、1989年、富士出版),p102-104,108,122
*14 『関東の親分衆 付・やくざ者の仁義 :沼田寅松・土屋幸三 国士俠客列伝より』(藤田五郎編集、1972年、徳間書店), p268-270
*15 『実録 東海の親分衆』, p221-222
*16 『サカナとヤクザ 暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う』(鈴木智彦、2021年、小学館文庫),p331-332
*17『仁義の祭り – 実録戦後やくざ史』「横浜極道者」(藤田五郎、1988年、青樹社),p116
*18 『現代ヤクザ大事典』,p20
*19 『関東やくざ者』, p42-44
*20 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p162-163
*21 『BAMBOO MOOK 四代目稲川会 総覧 : 新生「稲川軍団」を率いる最高幹部・直参60人』(ジェイズ・恵文社編、2006年、竹書房), p72
*22 『関東やくざ者』, p13
*23 『BAMBOO MOOK 四代目稲川会 総覧 : 新生「稲川軍団」を率いる最高幹部・直参60人』, p80
*24『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊), p62
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