「大場(だいば)一家」は幕末、森久治郎によって立ち上げられました (*1)。1961年大場一家七代目総長(下田守利)は引退時、跡目を立てず、縄張りを「鶴政会」(現在の稲川会)に譲渡しました(*1)。大場一家は、鶴政会の傘下に入ったのでした。
1949年稲川聖城は熱海の博徒組織「山崎屋一家」の跡目を引き継ぎ、同時に「稲川興業」を設立していました(*2)。稲川聖城の勢力は「稲川組」として活動し、版図を拡張させていきました(*2)。1959年11月、稲川組は鶴政会に改称しました(*2)。
1947年12月大場一家は横浜の「綱島一家」と抗争をしました(*3)。抗争の背景には、三島市(伊豆半島の北東部)における草競馬の警備利権を巡る対立がありました(*3)。当時の大場一家は伊豆で活動していました(*3)。また当時(1947年)の大場一家総長は霜田武夫でした(*3)。
稲川聖城は山崎屋一家の跡目を引き継ぐ前は、綱島一家の構成員でした(*3)。綱島小太郎が横浜で綱島一家を結成しました(*4)。後に高田福松も綱島一家総長になりました(*4)。高田福松が綱島一家総長だった時、鶴岡政次郎と藤木幸太郎は綱島一家の構成員になりました(*4)。
伊豆の博徒組織「下田一家」は1964年、四代目総長(佐藤昌勝)の引退時、「錦政会」(現在の稲川会)に加入しました(*5)。1963年10月鶴政会は錦政会に改称していました(*2)。
下田一家は、大場一家の分派でした(*5)。大場一家初代の森久治郎が引退し、二代目が就任した時、先述の山崎屋一家、下田一家、「阿幸地一家」が大場一家から独立しました(*5)。
当時の錦政会はすでに横浜や川崎、小田原を版図としていました(*2)。また1962年鶴政会は岐阜県や山梨県甲府市で地元組織と抗争をしました(*6)。版図拡張の途上で、錦政会(鶴政会)は大場一家と下田一家を収めたのでした。
2006年時、大場一家(山崎功二総長)は静岡県沼津市を拠点に活動していました(*7)。山崎功二総長の先代は長橋歳季でした(*8)。稲川会2次団体「紘城一家」トップの戸上光雄は大場一家の出身で、大場一家では総長代行まで務めました(*9)。1998年戸上光雄は、旧「集月一家」勢力を吸収した上で、小田原市で紘城一家を立ち上げました(*9)。
<引用・参考文献>
*1 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p40-43
*2 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p32-34
*3 『ヤクザ・レポート』(山平重樹、2002年、ちくま文庫),p139-140
*4 『関東やくざ者』(藤田五郎、1971年、徳間書店),p148-150
*5 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界, p44-46
*6 『日本のヤクザ100の喧嘩 闇の漢たちの戦争』(別冊宝島編集部編、2017年、宝島社), p104-107
*7 『BAMBOO MOOK 四代目稲川会 総覧 : 新生「稲川軍団」を率いる最高幹部・直参60人』(ジェイズ・恵文社編、2006年、竹書房),p56
*8 『BAMBOO MOOK 四代目稲川会 総覧 : 新生「稲川軍団」を率いる最高幹部・直参60人』,p81
*9 『BAMBOO MOOK 四代目稲川会 総覧 : 新生「稲川軍団」を率いる最高幹部・直参60人』,p57
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