福岡県警は9月11日に北九州市を拠点にするヤクザ組織・工藤会の野村悟総裁を逮捕しました。逮捕理由は、1998年北九州市で起きた漁協組合長射殺事件に関わったとする殺人容疑などです。北九州市の港湾工事で多大な権限を握っているのが漁協組合長です。射殺事件の実行犯は工藤会の会員2人で無期懲役などの実刑判決を受けています。港湾工事に介入したい工藤会側と漁協組合長側との対立が射殺事件の背景にありました。この事件の余波は現在まで続いており、射殺された漁協組合長の親族が近年死傷被害に遭っています。しかし犯人は捕まっていません。文脈上、工藤会の犯行が疑われています。工藤会の実質トップである総裁の逮捕は、工藤会側に心理的打撃を与えたい福岡県警の思惑を如実に示しています。裏返せば、親族への死傷事件の糸口を福岡県警が見つけられていない事を意味しています。
*今回は記事を作成するにあたり、『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、洋泉社)、『実話時代』2013年11月号、2014年5月号、『増補・新装版 極道一番搾り 親分、こらえてつかあさい』(溝下秀男著、宝島SUGOI文庫)、北九州市のサイトの情報を参照させて頂きました。
工藤会はマスコミや警察当局から「武闘派」と形容されています。警察当局の厳しい取締りを可能にした暴力団対策法が施行された1992年以降、全国的にヤクザ組織間の抗争は減り、ヤクザ組織による暴力事件も目立たなくなりました。その状況下に逆らうように、工藤会が本拠地とする北九州市では近年、飲食店への襲撃事件が頻発しています。警察当局の指導を受けた飲食店が用心棒代であるミカジメ料を拒否したことによる報復要素が濃い事件です。工藤会側の犯行という断定的証拠・証言はないですが、工藤会が北九州市の裏社会を独占しています。他のヤクザ組織や不良団体の犯行であれば、工藤会の縄張りの侵入を意味し、逆に工藤会にとって許し難き事態です。消去法で工藤会に焦点がいきます。
工藤会は福岡県を含む3県で活動しており、構成員約560名を抱えています(『実話時代』2014年5月号)。本拠地とする北九州市は、2014年現在約96万人の人口を持つ政令指定都市です。工業都市としても有名です。表社会のサイズに、裏社会のサイズも比例していきます。大都市・北九州市における裏社会の支配が、工藤会の富の源泉になっています。「武闘派」の側面については、工藤会の歴史が物語っています。1960年代前半、山口組が九州内のヤクザ組織を傘下に収める活動が鮮明になっていきます。当然、九州の玄関口である北九州市にも山口組の手が伸びました。1963年山口組は、北九州市の梶原国弘と安藤春男を傘下に収め、山口組系梶原組と山口組系安藤組を設立させます。対抗したのが工藤玄治を組長とする工藤組です。現在の工藤会の先祖にあたる組織です。山口組系2団体に山口組本体が加勢してきます。山口組対工藤組の構図で抗争に発展しました。福岡県警の介入があり、1963年内に抗争は引き分けの形で終了します。地方のヤクザ組織にとって「広域ヤクザ組織・山口組と引き分けた」という事実は、自身の強さを誇示する上で、この上ありません。
工藤会にはまだ波乱がありました。山口組との抗争の結果、工藤組のナンバー2であった草野高明が服役しました。草野高明はその際、工藤組へ脱退を一方的に伝えました。1977年に出所した草野高明は草野一家というヤクザ組織を設立します。1979年には山口組の有力2次団体で福岡に拠点を持つ伊豆組組長と草野高明は五分の兄弟盃を交わしました。つまり、山口組2次団体と草野一家の同盟関係に至ったことを内外に示したのです。また草野高明が出所した際、山口組側から出迎えや祝いの席を設けられていました。新興ヤクザ組織の草野一家としては山口組の力を借りたいという思惑と、山口組側は北九州市再度の侵攻への足掛かりとして草野一家との関係作成の思惑が重なった結果でした。この事態を好まないのが、山口組との抗争以後「工藤組」より改名した工藤会です。旧組織のトップとナンバー2が対立して、一方に山口組が付いているという構図です。草野一家と工藤会は抗争を開始し、1981年には両団体のナンバー2が銃撃戦の末、共に命を落とす事態まで至りました。
抗争は引き分けの形で終結します。両団体のトップである工藤玄治と草野高明が仲直りし、1987年に両団体は合併、工藤連合草野一家という統一団体が結成されました。両団体が存続している限り、抗争の可能性は残ります。しかし1つの団体になれば、抗争という選択肢は消えます。山口組からすれば、両団体の合併で北九州市に関与する機会を失ってしまいました。西日本地方の多くのヤクザ組織が山口組傘下になった中で、工藤会は傘下に収まらなかったヤクザ組織の1つです。山口組と戦ってきた実績が「工藤会の自負」として機能しています。工藤連合草野一家は、組織名に連合が入っているように、当初は「連合体」の色合いが濃い組織だったと推測できます。工藤連合草野一家のトップは、工藤玄治と草野高明の2人が就きました。そして1990年に草野一家出身の溝下秀男が「2代目会長」という名前で工藤連合草野一家のトップを引き継ぎます。トップが1人になったことで、連合体の要素が薄くなっていきます。
1999年工藤連合草野一家から、現在の工藤会に組織名称が変わりました。工藤組→工藤会(1963年以降)+草野一家(1977年)→工藤連合草野一家(1987年)→工藤会(1999年)という流れで、組織名称は変更しています。同時に、工藤会の歴代トップを新しく位置づけました。工藤会初代会長に工藤玄治、2代目会長に草野高明、3代目会長に溝下秀男という形にしたのです。溝下秀男は1999年に「工藤連合草野一家2代目会長」から「工藤会3代目会長」という役職名に変わったのです。その後、2000年に野村悟が4代目会長に就きました。2011年には田上文雄が5代目会長に就任して、野村悟は総裁職に就任しました。野村悟と田上文雄は工藤会田中組の出身者です。現在、名目的には会長の田上文雄が工藤会のトップですが、実質的なトップは総裁の野村悟であると警察当局は見ています。
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