極東会の歴史

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 祭りの屋台で商売する人達をテキヤと言います。テキヤが集う組織は日本全国に沢山ありますが、その中の最大団体として位置しているのが極東会です。一方で、極東会は1993年から警察当局によって「指定暴力団」として扱われています。ヤクザ組織の一面を持っています。本拠地は東京池袋、構成員880名を抱え、1都1道13県で活動しています(『実話時代』2014年5月号)。構成員の数では数千名以上の構成員を持つビッグ3(山口組、住吉会、稲川会)に及びません。一方、多数の地域における活動実態はビッグ3同様、極東会が広域性を帯びた組織であることを示しています。

*今回記事を作成するにあたり、『六代目山口組ドキュメント2005~2007』(溝口敦著、講談社+α文庫)、『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、洋泉社)、『仕事で使えるヤクザ親分の名言』(山平重樹著、徳間文庫)、『劇画 山口組対極東会』(2015年、メディアックス)、『山口組永続進化論』(猪野健治著、だいわ文庫)、『実話時代』2014年5・8月、2015年3月号、『実話時代』号数不明(「山極抗争」の記事が掲載されている号)、公益財団法人 静岡県暴力追放運動推進センターのサイトの情報を参考にさせて頂きました。

 1980年代のヤクザ業界において、地方の独立ヤクザ組織がビッグ3の傘下に入る動きが加速していきます。テキヤ組織が多い東北や北海道においても同様の動きが起こります。北陸になりますが、新潟を拠点にして、伝統テキヤ組織を起源に持つ源清田会は現在山口組・2次団体です。仙台を拠点にして東北で最大のテキヤ組織であった西海家は住吉会の傘下に入りました。しかし独特な要素を持つテキヤ組織にとって、博徒系ヤクザ組織が多数入っているビッグ3との親和性は高いとは言えません。ビッグ3入りを嫌った独立テキヤ組織の「受け皿」の役割を果たしたのが極東会です。

 極東会は武闘派集団と形容されています。極東会が歴史的に組織拡大に至った理由の1つに、好戦性がありました。テキヤ組織の縄張りである「庭場」を多く持たなかった極東会の勢力にとって、他団体の縄張りへの侵出意欲が高かったことが背景にあります。警察能力が高い日本において、現在ヤクザ組織は簡単に抗争を起こせません。つまり警察という「試合をすぐに止める強い審判」がいる状況下です。各ヤクザ組織は、抗争の際、戦闘力を十分に発揮できないのです。また水面下に潜っているヤクザ組織の戦闘力を調べることも容易ではありません。ヤクザ業界で言われる「武闘派集団」とは、現在の戦闘力からではなく、過去の抗争の結果から定義されているのが実態です。けれども「抗争を過去に経験した」ヤクザ組織は、「将来の抗争の可能性」を人々に与えることができます。極東会は山口組と抗争に至ったことがあります。1989年「みちのく抗争」、1993年「山極抗争」です。両抗争とも広範囲で実施されたのが特徴です。山極抗争では、北海道、東北、関東、中部等の広い範囲で40件の抗争が起きました。敵がいない所で抗争は起きません。両団体の広域性を実証した抗争でした。前年の暴力団対策法施行を背景とする警察当局の厳しい介入があり、抗争は5日間で終結しました。

 1994年極東会は直参制を導入します。一般的にテキヤ団体は連合体の形態をとります。連合体とは参加組織が横並びであり、団体の長は参加組織に対して強い権限を持たない組織形態です。一方直参制とは、参加組織を下部団体にして、団体の長を「下部団体の上位者」として位置づける仕組みです。団体の長は、下部団体に対して、強い権限を持ちます。上意下達を具現化させた仕組みです。暴力要素を前面に押し出す組織は、上意下達が強く働く仕組みを好みます。武力行使を巡り是非の意見が出る組織より、トップの即決で武力行使できる組織の方が、抗争を厭わないヤクザ社会では有利だからです。直参制の導入は、極東会がヤクザ組織の色合いを濃くした事を物語っています。また極東会は住吉会と並んで、多数のヤクザ組織が集まる新宿歌舞伎町にて、強固な勢力を誇っています。

 極東会の初代は関口愛治となっていて、関口愛治が極東会を立ち上げた印象を受けます。実際の歴史は少し複雑です。明治時代、飴売りを生業にしていた竹内徳次郎が横浜で“飴徳”という組織を立ち上げました。1921年飴徳出身の桜井庄之助が静岡県沼津市で桜井一家を立ち上げます。関口愛治は桜井一家で修行した後、東京で関口一門を立ち上げます。「飴徳を源流とする組織」として、竹内徳次郎を始祖とする「飴徳グループ」、桜井庄之助の「桜井グループ」、関口愛治の「関口グループ」の3団体が活動していました。3団体は1961年合併して極東愛桜連合会を立ち上げます。極東の名前が入っていますが、関口グループが一時「極東クラブ」と名乗っていた時期があり、そこから組織名に取り入れられたと思われます。しかし1967年警察当局の厳しい取締りの結果、極東愛桜連合会は解散に至ります。

 その後「飴徳グループ」は極東飴徳連合会、「桜井グループ」は極東桜井総家連合会、「関口グループ」は極東桜井一家関口一門という組織名称で、各グループは活動していきます。極東桜井一家関口一門は1990年に極東会と名称を変更します。現在の極東会は関口グループを中心に形成された組織です。よって関口愛治を初代として位置づけているのです。極東桜井総家連合会と極東会は、1993年に警察当局より指定暴力団の扱いを受けます。極東桜井総家連合会は2004年、組織の多くを山口組傘下の複数の組に取り込まれる形で、組織が縮小しました。指定暴力団の扱いも現在、取り消されています。「関口グループ」の一派が独立して、山口組傘下に入った事例があります。三重県に拠点を置いていた「関口グループ」の橋本組は1978年、三重県のテキヤ組織と博徒組織に呼びかけて、三重県内における一大ヤクザ組織を設立します。組織名は愛桜会。発足以降、独立団体(1次団体)として活動していましたが、1990年山口組の傘下に入ります。山口組は愛桜会・橋本達男会長を「舎弟」として迎え入れます。1次団体・山口組の「舎弟」は1次団体内の上層部を意味します。山口組が愛桜会の加入を重要視した証左です。

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