弘道会はなぜ武闘派と呼ばれるのか

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 ヤクザ組織の中でも、「武闘派」と雑誌に称される組織があります。暴力装置を基盤とするヤクザ組織の中でも、際立つ暴力性を有し、ヤクザ社会で一目置かれていることを意味しています。「武闘派」と称されるヤクザ組織の1つに、名古屋に本拠地を持つ弘道会があります。山口組の有力2次団体で、山口組六代目組長・司忍の出身母体でもあります。弘道会の前身組織は、弘田武志を組長とする弘田組です。弘田組は1969年から山口組2次団体として活動していました。1981年山口組三代目組長・田岡一雄が死去します。しばらく1次団体・山口組の後継トップ不在の事態が続きましたが、1984年四代目組長に竹中正久が就任します。しかし四代目組長擁立方法を巡り、山口組内で亀裂が生じます。四代目組長・竹中体制に反対するグループは山口組を脱退、一和会を結成しました。各2次団体の長は二者択一を迫られました。弘田武志は一和会側にいましたが、山口組残留を主張する弘田組若頭・司忍の反対に遭います。結果、弘田武志はヤクザ社会から引退し、弘田組を解散します。旧弘田組を丸抱えする形で1984年に誕生したのが司忍を会長とする弘道会です。1984年に勃発した山口組と一和会の抗争(山一抗争)で、弘道会は山口組側として抗争に参戦します。弘道会三代目会長・竹内照明は山一抗争の活動で服役しています。

*今回記事を作成するにあたり、『山口組の100年 完全データBOOK』(メディアックス)、『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、洋泉社)、『実話時代』2015年1月号の情報を参考にさせて頂きました。

 山一抗争は1989年に、一和会の解散もあり、完全終結します。同年山口組五代目組長に渡辺芳則が就任します。五代目体制の新人事で、司忍は若頭補佐に任命されます。2次団体の長が50~100名ほど集う1次団体・山口組の中で、若頭補佐は上位者に位置付けられます。五代目体制以降、司忍が会長を務める弘道会も山口組内で存在感を大きくしていきます。1990年、弘道会は独立団体・波谷組と抗争に至ります。抗争相手の波谷組は本拠地を大阪に置き、西日本各地に傘下団体を持ち、構成員約300名を有するヤクザ組織です。山波抗争と呼ばれます。弘道会以外の山口組組織も抗争に参加しましたが、主導的な役割を果たしたのが弘道会です。

 抗争の発端は、1990年6月福岡市内で弘道会下部団体の幹部が波谷組下部団体の幹部に射殺された事件です。背景には、幹部の移籍を巡る争いがありました。報復合戦が起き、抗争期間内で、山口組側が一般人を波谷組幹部と間違って射殺する悲劇まで起きました。抗争は山口組側優位に展開しました。1990年12月波谷組組長・波谷守之が名古屋の弘道会本部に出向き司忍に謝罪、抗争は終結します。波谷守之はヤクザ業界において有名な存在で、元々は広島で活動していました。その後、三代目山口組時代の有力2次団体・菅谷組の傘下に入ります。しかし菅谷組のトップ・菅谷政雄が1977年、山口組から絶縁処分を下されます。絶縁理由はありましたが、背景として、山口組内の派閥争いがありました。以降、菅谷組は1次団体として活動しますが、1981年菅谷政雄の引退と共に、解散します。上部団体・菅谷組に従う形で、波谷守之も山口組から離れました。つまり波谷組は「旧山口組」の組織です。「五代目時代の新興勢力」対「三代目時代の有力勢力」という新旧対決の側面を持っていたのが山波抗争でした。

 弘道会が「武闘派」という性格を強く表したのが2003年に勃発した北関東抗争です。抗争の発火点は、弘道会下部団体・大栗組が栃木県宇都宮市で運転代行業を開始したことです。山口組下部団体が縄張りを持たない関東地方に進出する際、裏社会の中核産業ではなく周辺産業に足場を作る方法が典型的です。繁華街の飲食店や風俗店からのミカジメ料の徴収、繁華街の客を相手にする違法風俗・賭博の営業は、地元ヤクザ組織の利権です。強引に奪い去ることはできません。そこで夜の世界の一端を担う運転代行業から大栗組は参入したのです。しかし宇都宮市をはじめ栃木県の裏社会を牙城とするヤクザ組織・親和会は看過できませんでした。親和会は1次団体・住吉会の下部団体で、古くから北関東に基盤を置いているヤクザ組織です。運転代行業とはいえ、夜の世界に拠点を持たせると、親和会の利権が次第に浸食される可能性があったからです。

 2003年4月18日、大栗組事務所に保冷車が突入し、北関東抗争が始まります。同日、親和会関係者の建物が銃撃されます。翌日4月19日、親和会下部団体の幹部が、組事務所の駐車場で射殺されます。4月21日、再度大栗組事務所にダンプカーが突入します。同日、親和会下部団体の幹部が射殺されます。4月23日には、茨城県にある親和会下部団体の組事務所に、4トントラックが突っ込む事件も起きます。その後5月5日、名古屋市内で弘道会の組員が銃撃され、重傷に遭います。同日、栃木県佐野市内にある親和会下部団体の事務所に男が押し入り、親和会下部団体の幹部2名を射殺します。

 4月18日から5月5日の抗争を振り返ると、大栗組つまり弘道会側の「暴力性」と「攻撃の早さ」が際立ちます。親和会側の攻撃は、2回の大栗組事務所への自動車車突入と名古屋市内での銃撃です。一方、弘道会側の攻撃は、建物への威嚇射撃とトラック突入、そして幹部4名の射殺です。ヤクザ組織同士の抗争において、敵対組織事務所や幹部宅への威嚇射撃で終始する抗争もあります。敵対組員の体への銃撃は、多様なリスクを抱え込むので、避けるのです。誤射による一般人殺害の可能性、長期服役を受ける実行組員にかかる負担、報復の連鎖等、マイナス要素が多いです。親和会側が弘道会側の組員の体に向けて初めて銃撃したのは5月5日です。抗争開始日の4月18日から日が経っています。5月5日までに親和会側は幹部2名を射殺されている為、5月5日の弘道会組員への銃撃は、その報復の意味合いが強いです。一方、弘道会側は抗争開始日の翌日4月19日に、親和会幹部の体に向けて銃撃しています。4月19日の時点で、弘道会側に死者は出ておらず、弘道会側の強い戦闘力を窺い知ることができます。弘道会の戦闘力を担保している1つが「福利厚生」です。長期服役の代償として、抗争に従事した弘道会組員は留守家族向けの手当、裁判の弁護士費用、出所後の経済的支援を受けることができます。

 親和会側が報復に数日掛かったのに対して、弘道会側は同日内で報復することが多く、弘道会側の「攻撃の早さ」が浮き彫りになります。ヤクザ組織間の抗争における攻撃で、鍵を握るのが情報力です。ヤクザ組織間の抗争は、特殊な戦いです。国対国の戦争のように場所や時間に捉われず武力を幅広く展開することは不可能です。警察当局の警戒体制の下、攻撃機会は少ないです。攻撃対象を的確に把握した情報が重要になります。情報収集の出来が攻撃の成否を分けます。つまり情報収集力に優れていたから、弘道会は「攻撃に至る時間」を短くすることができたのです。通常、抗争後に敵対組織の情報収集をしていたら、攻撃は遅れます。弘道会側の速攻から、抗争前に親和会側の情報を収集していたか、もしくは「情報が素早く上がり攻撃部隊に伝わる」という広域情報網を弘道会側が形成していたことを読み取ることができます。加えて4月18日から5月5日の間、親和会側の攻撃対象が2カ所なのに対して、弘道会側は多岐にわたっていました。弘道会側の攻撃範囲の広さは、情報収集が広範囲に行き渡っていたことを物語ります。情報力の差が、両者の攻撃内容の違いを分けたのです。「十仁会」というスパイ組織が、弘道会内に存在すると噂されています。実際の有無は知りえませんが、「十仁会」の噂が出てくる背景には、弘道会の情報収集力が他団体に比べて突出していることがあります。

 6月に入り、両者は和解し、抗争は終結しました。大栗組の宇都宮市からの撤退が和解の条件とされています。和解の結果、弘道会が損をする形になりました。しかし抗争を通じ、ヤクザ社会内で「武闘派」の地位を弘道会は固くしました。抗争が減っていく中、抗争を多く経験した弘道会は、抗争経験の少ない他団体に比べて、武力的優位性を持ち続けていきます。

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