ヤクザ組織の暗黙のコミュニケーション

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 ヤクザ組織が世界に存在する他の反社会的集団・犯罪集団・テロリスト集団と違いを分けている点の1つに、社会との向き合い方があります。ヤクザ組織は時の政権や社会と対決姿勢をとりません。現体制を支持する保守的な存在であります。反面、ヤクザ組織は違法領域において経済活動をしています。ヤクザ組織とは二律背反的な存在です。よって警察当局に対しても、時に従順な姿勢を示します。もちろん通常、警察当局とヤクザ組織は敵対関係にあります。しかしヤクザ組織同士の抗争事件があった場合、実行グループを最終的に出頭させます。ヤクザ組織にとっては、構成員を刑務所に送るので、本来「損失」に値する行為です。けれども出頭により、抗争事件は一応の解決方向に至ります。警察当局のプライドが保たれる訳です。つまり実行メンバーの出頭は、警察当局への「協力」と見ることができます。警察当局をはじめとした社会との柔軟な関係が、ヤクザ組織を現在まで存在し続けさせている要因の1つです。

*今回記事を作成するにあたり『血別 山口組 百年の孤独』(太田守正、2015年、サイゾー)、『弘道会の野望 司六代目と髙山若頭の半生』(木村勝美、2015年、メディアックス)、『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス)、『完全保存版 TOWN MOOK 山口組 百年の血風録』(週刊アサヒ芸能・特別編集、2015年、徳間書店)の情報を参考にさせて頂きました。

 とはいえ、ヤクザ組織同士の抗争時において、関与した構成員全てを警察当局に渡すほど、ヤクザ組織は誠実ではありません。指示・命令の役割を果たす指導者層に罪が被らないように、工夫をします。ヤクザ組織同士の抗争が勃発して、組織の長・幹部の指導者層は「抗争厳禁の命令」を表面上出します。一方、水面下で構成員に敵対ヤクザ組織への襲撃を命じるのです。構成員が指導者層の「抗争厳禁の命令」を破った形になり、基本的に指導者層に罪が及びません。加えて、敵対ヤクザ組織に結果的に襲撃をしたので、ヤクザ組織としての体裁を保つこともできました。つまり「上意下達の機能不全」を偽装工作するのです。出頭した実行グループの構成員達は、水面下で指導者層からの指示があったことを、取り調べで告白することはありません。

 さらに時として、指導者層からの水面下の指示が実際になくても、構成員が指導者層の意を汲んで実行する例もあります。偽装工作をしないで構成員の自己判断に基づき、実行する形です。別の言い方をすれば、「暗黙のコミュニケーション」により実行された形です。敵対ヤクザ組織への襲撃成功という結果を伴えば、ヤクザ組織内で評価されます。指導者層にとっても、実際指示を出していないので罪に問われるリスクは低くなり、より望ましい事態です。元山口組の2次団体・太田興業の組長であった太田守正は自身の著書『血別 山口組 百年の孤独』(210P)で「ヤクザの行動原理は最高幹部や親分からの司令ではなく、末端の組員たちが手柄を求めて行動することころにある」と述べています。「暗黙のコミュニケーション」はヤクザ組織にとって重要な働きをするのです。抗争経験が豊富なヤクザ組織ほど、「上意下達の機能不全」の偽装工作や「暗黙のコミュニケーション」に長けています。しかし暗黙であるがゆえに、コミュニケーション者の間で、誤解が生じやすい側面があります。指導者層の意図を汲み間違ってしまう場合です。指導者層が意図していない事を実行してしまい、属する組織に甚大な結果を招いてしまいます。

 1997年8月、山口組の若頭・宅見勝が神戸市内のホテルのラウンジ内で射殺される事件が起きました。実行グループは山口組の2次団体・中野会の構成員でした。当時の中野会は山口組の中でも有力2次団体の1つでした。神戸に本部を構え、傘下団体は近畿を中心に広域に存在していました。中野会の会長である中野太郎は当時、1次団体内の若頭補佐という執行部の地位にありました。中野会は当時、京都の独立ヤクザ組織である会津小鉄が縄張りとする京都の利権に、山口組の中でいち早く手を伸ばしていました。1992年以降、中野会は会津小鉄と抗争に至る事態を続けていきます。1996年7月、京都府八幡市内の理髪店にいた中野太郎を会津小鉄の構成員が銃撃する事件にまで発展していきます。抗争が急激な展開に至ったことで、会津小鉄は山口組本部に最高幹部らの断指を含めた謝罪を行い、事態は収束することになりました。山口組側として取りまとめたのが宅見勝若頭で、この収め方に中野太郎は不満を募らせたと言われています。1997年8月に宅見勝若頭が暗殺されて、すぐに実行グループが中野会の構成員であるとことが判明します。しかし中野太郎自身は、山口組内での尋問で、犯行を命令・指示したことを否定します。実際、中野太郎は宅見勝若頭暗殺事件に関して逮捕されることはありませんでした。

 確定的なことは未だに謎ですが、中野会の暗殺実行グループの構成員が中野太郎の意図を汲み勝手に実行したと考えるのが妥当です。暗殺実行グループは6人で構成されていました。もちろん中野太郎自身が、当時どのような思いでいたかは不明です。恐らく、恨みを持っていたとしても、暗殺実行の考えまでは持っていなかったはずです。若頭暗殺が深刻な事態を中野会にもたらすことは容易に中野太郎に想像できたはずだからです。しかし事態は思わぬ方向に展開してしまいました。結果的に、暗殺の実行自体に成功しますが、暗殺という行動は中野会そして中野太郎を窮地に追い込みます。1997年9月に、「ヤクザ業界の永久追放」を意味する絶縁処分が山口組本部から中野太郎に下されます。山口組から抜けて独立団体として活動することになった中野会は、各地で事務所や自宅への攻撃、幹部の射殺など、山口組から攻撃を受けることになります。暗殺実行グループも、2人が死体で見つかり、残りの4人は逮捕され長期刑に服すことになりました。中野会は弱体化していきます。2005年8月、中野太郎はヤクザ業界からの引退と中野会の解散届を大阪府警に提出して、中野会は消滅しました。ヤクザ組織において強みである「暗黙のコミュニケーション」が時として、自身のヤクザ組織に悪い結果をもたらすことを示した事例と言えます。

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