山口組側の切り崩しのキーマン

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 山口組と神戸山口組の対立が熱を帯びてきています。2月15日東京・歌舞伎町にて両勢力の小競り合い、23日神戸山口組2次団体・正木組事務所への発砲、27日神奈川県厚木市の山口組3次団体事務所へのトラック特攻、同日埼玉県八潮市にある神戸山口組3次団体組長宅への発砲等、ここに来て両団体の抗争事件が多発しています。昨年も両団体の抗争事件は起きていましたが、小競り合いの域を出ていませんでした。2月後半に起きた正木組事務所と神戸山口組傘下組長宅への発砲は、山口組側が拳銃を抗争に用いてきたことを意味しています。一方、神戸山口組側はトラック特攻や火炎瓶の投げ込みの手段を用いていますが、現在拳銃の使用には至っていません。ともかく抗争の内容が激しさを増しています。

*今回記事を作成するにあたり『六代目山口組10年史』(2015年、メディアックス)、『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス)の情報を参考にさせて頂きました。

 ヤクザ組織間抗争における伝統的な攻撃手段として、敵対組織の幹部銃殺があります。銃殺を繰り返すことで、敵対組織に強い恐怖心を植え付けさせ、戦意を喪失させます。抗争を有利な形で終結させる狙いの下、実行されます。日本という法治国家内で許されない行為であり、銃殺を実行したヤクザ組織は国家から制裁を科されてきました。制裁の具体的な内容が、実行犯及び現場指揮官役の組員の長期服役でした。ヤクザ組織は長期服役する組員に対して、服役中及び出所後手厚い経済的援助及び昇格人事によって報いてきました。「組員の中から長期服役者を出せる数」の多寡によって、勝敗が決まってしまう面がヤクザ組織間抗争にはあったのです。「組員の中から長期服役者を出せる数」とは、突き詰めれば、資金力と組織内統制力です。山口組は資金力と組織内統制力の2つに長けていたからこそ、抗争に強かったのです。また抗争に強かった為、日本のヤクザ社会の最大勢力となったのです。

 しかし現在、抗争において敵対組織の人間を銃殺した場合、実行犯及び現場指揮官役の組員の長期服役だけでは済まなくなっています。2008年3月、山口組2次団体・小西一家と住吉会傘下団体との間で抗争が起きます。抗争で小西一家側は住吉会の幹部1名を銃殺しました。小西一家のトップである落合勇治が、組織的犯罪処罰法違反及び銃刀法違反の疑いで逮捕されます。2013年7月さいたま地裁で落合勇治に無期懲役、罰金3000万円の判決が下されました。落合勇治は東京高裁に控訴します。そして昨月の2月1日、東京高裁は落合勇治の控訴を棄却し、さいたま地裁が出した無期懲役、罰金3000万円の判決を支持しました。この近年の判例から、ヤクザ組織間抗争において敵対組織の人間を殺害した場合、日本の司法は「殺害実行側の2次団体トップを無期懲役相当の刑」にできることが明らかになりました。つまり山口組と神戸山口組の抗争でも、死者が出た場合、殺害実行側の2次団体トップは長期刑に服する可能性が高いのです。拡大解釈されて、1次団体トップにまで長期刑が問われてくる可能性もあります。山口組と神戸山口組ともに、相手幹部を銃殺するという選択肢をとりにくい状況下にあります。

 今後抗争の様相が激しくなるものの、銃殺という手段が頻繁に用いられることはないでしょう。勝敗においては、切り崩しが鍵を握ってきます。切り崩しの戦いにおいては、現在神戸山口組に軍配が上がります。近日も山口組3次団体・木村會が神戸山口組側に移籍しました。愛媛県松山市に拠点を置く木村會は2015年までは山口組2次団体でした。先代会長の木村阪喜の引退に伴い、同年から山口組2次団体・大同会の傘下に入っていました。山口組においてトップが引退した2次団体によっては、「主要2次団体の傘下入り」する場合があります。後に「2次団体に再昇格」という経路を辿ることもありますが、再昇格に至らない場合もあります。歴史を遡れば、木村會は元々神戸山口組の中核組織・山健組の傘下団体で、2005年内部昇格の形で山口組2次団体になっています。神戸山口組とは結び付きがあったのです。昨年以降、山口組から神戸山口組に移籍する勢力は相次ぐものの、山口組への出戻り勢力の話は表に出てきません。現在の山口組執行部への不満、高額な上納金、そして神戸山口組側の切り崩しの上手さが背景にあります。

 山口組側にも切り崩しの仕事に適任と思われる人物がいます。山口組ナンバー3の地位にいる橋本弘文統括委員長です。2月19日橋本弘文は電磁的公正証書原本不実記録・同供用の疑いで大阪府警に逮捕されました。自動車登録時における使用者の偽りの疑いである為、社会不在が長くなることはないと思われます。橋本弘文は長らく山健組若頭を務めていた経歴を持っています。1989年山健組組長の渡辺芳則が山口組組長に就任します。それに伴い山健組の人事も改められました。若頭を務めていた桑田兼吉が山健組の新しい組長に就任、後任若頭に就任したのが橋本弘文でした。1次団体トップの出身母体ゆえに、渡辺芳則組長体制時(1989~2005年)、山健組は勢力を拡大します。橋本弘文は2003年まで山健組若頭を務めていました。若頭は組織内ナンバー2の役職です。ヤクザ組織において組織内トップは組織内の実務を行わず象徴的に君臨するのが役割となっています。「親分子分」という垂直的関係に基づく考えにより、組織運営という厄介事は「子分」達の仕事であるとヤクザ社会では決められています。子分の長男格である若頭が「実務者のトップ」として組織を動かしていきます。つまり橋本弘文は山健組全盛期の「実務者のトップ」だったのです。若頭として長年組織内調整の仕事をしていた為、山健組内の人間関係に熟知しています。「誰と誰が仲が悪い」「現在の人事体制に不満を持っている人は誰か」などの事は当然分かるはずです。もちろん橋本弘文自身が率いる極心連合会が2次団体に昇格するのに伴い、山健組を脱退した2005年から長い時が経ていますので、事情が多少変わっているでしょう。とはいえ現在の山口組内において橋本弘文以上に、山健組に精通した人物はいません。切り崩し以外にも、平和的解決の動きにもキーマンとなる人物といえます。

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