旭琉會

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 沖縄県に地盤を持つヤクザ組織として、旭琉會(きょくりゅうかい)があります。旭琉會以外のヤクザ組織は近年沖縄県に進出、活動していません。沖縄県の裏社会は旭琉會により独占されています。警察庁「平成27年の暴力団情勢」によれば、旭琉會の構成員は約390名、活動範囲は沖縄県内のみとなっています。第二次世界大戦で戦地になった沖縄県は終戦後、日本に返還される1972年まで、アメリカ軍により統治されます。歴史的に沖縄県には、日本本土でヤクザ組織の源流となる博徒組織やテキヤ組織が存在しませんでした。1879年に「沖縄県」として日本領土に組み込まれる前では、琉球王国という独立国であったこと、1945~1972年までアメリカ軍統治下だったこと(日本のヤクザ組織が進出しにくい状況)、日本本土とは海を隔てた遠距離であることが、日本の裏社会の影響が及ばなかった背景として考えられます。ちなみに国土交通省国土地理院サイトにある「都道府県庁間の距離」によれば、沖縄県庁と鹿児島県庁の距離は655.7kmです。東京都庁と広島県庁の距離が675.1kmですので、沖縄県と本土との距離は遠いことが分かります。

*今回記事を作成するにあたり『破滅の美学 ヤクザ映画への鎮魂曲』(笠原和夫、2004年、ちくま文庫)、『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂)、『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社)、『実話時代』2013年11月号・2014年5月号の情報を参考にさせて頂きました。

 戦後の沖縄では、米軍統治下という特殊上、米軍物資(食料や衣類)を巡る裏ビジネスが栄えます。豊かなアメリカ社会を保つ米軍施設には物資が豊富に存在しており、一方米軍施設外の沖縄全体は物資不足に陥っています。命懸けで米軍施設に潜り込み物資を盗み、米軍施設外で売れば、大きな儲けを手にできます。また横流しという形でも、米軍物資は流出しました。このビジネスに従事する者達は「戦果達人(アギャー)」と呼ばれました。戦果達人はトラックを使い米軍物資を沖縄県中に運びました。戦後、鉄道を持たない沖縄において、トラックは物資移送手段として重宝されました。戦火達人の多くは、元トラック運転手でした。組織力が求められるビジネスの為、組織化が進んでいきます。結果、戦果達人グループを源流とする巨大組織が、1952年頃に形成されます。組織のトップ喜舎場朝信がコザ市(現在の沖縄市)に拠点を置いていたことから、コザ派と呼ばれました。

 沖縄は空手が盛んで、空手道場が多くありました。空手道場に集まる若者達の中には、戦後の不安定な状況も手伝い、アウトロー集団化していく人達もいました。賭博場や遊技場、接待飲食店からのミカジメ料徴収が、空手道場アウトロー集団の稼業でした。道場単位で活動していたグループは次第に集まり合い、1960~61年には1つの巨大組織が形成されます。組織のトップ又吉世喜が那覇市に拠点を置いていたことから、那覇派と呼ばれました。戦後本土のヤクザ組織が広域化・巨大化したように、沖縄でもアウトロー集団が広域化・巨大化した結果、コザ派と那覇派という2大組織が誕生します。便宜上、コザ派と那覇派もヤクザ組織として見なすことにします。しかし生まれたばかり沖縄ヤクザ組織は、本土のヤクザ組織と性格を異にしていました。

 本土のヤクザ組織の多くは、博徒組織やテキヤ組織を母体としています。博徒組織やテキヤ組織は、組織によっては幕末以降からの歴史を持つ為、裏社会での活動歴が長いです。その伝統を引き継いだ本土のヤクザ組織も、裏社会で生存するノウハウに熟知しています。暴力を用いつつも、暴力を抑制できるのがヤクザ組織の強みです。無軌道な暴力の行使をする集団は日本の場合、警察当局により潰されます。ヤクザ組織は組織上、暴力行使をためらわない人間を構成員とする必要があります。一方、暴力行使をためらわない人間で構成された組織は、無軌道な暴力行使に走る危険を常に持っています。また組織内での争いも激しくなります。暴力を抑制できる集団になるには、強い組織内統制力が求められます。本土のヤクザ組織は、構成員を「疑似家族化」することで、組織内統制力を強めてきました。親分子分という「明確な上下関係」で組織内を形態化することで、構成員をコントロールしてきます。

 一方、戦後誕生した沖縄のヤクザ組織は、裏社会での活動歴が短く、裏社会で活動するノウハウを多く持っていませんでした。沖縄ヤクザ組織の歴史において、抗争が多発する要因となりました。1961~1962年コザ派と那覇派の抗争がありました。1964年には、那覇派から脱退したグループが普天間派を結成、コザ派から脱退したグループが泡瀬派を結成し、2団体とも分裂劇に遭います。「コザ派」「泡瀬派」「那覇派」「普天間派」の4団体による争いが開始されました。1967年までに、コザ派後継団体の山原派と那覇派の2団体が勝ち残りました。1970年10月、山原派と那覇派は合併して、沖縄連合旭琉會が誕生します。沖縄においてヤクザ組織が初めて一本化されました。日本返還の1972年が迫り、本土のヤクザ組織進出の警戒が背景にありました。しかし組織名が示すように、沖縄連合旭琉會は連合型組織で、上納金制度もなく、「1次団体」としての組織のまとまりは弱かったです。1974年山原派の上原一家が脱退、上原一家は沖縄連合旭琉會と抗争を開始します。1976年には、上原一家は山口組大平組の傘下団体となり、上原組と組織名を変更します。また山口組の濃厚な影響を受ける琉真会が立ち上げられ、琉真会は上原組と共に戦っていきます。沖縄の内部抗争に、山口組が入ってきたのです。同年、沖縄連合旭琉會は旭琉會に組織名称を変更します。「旭琉會」対「上原組・琉真会(バックは山口組)」の対立構図で、抗争が繰り広げられました。戦況は、旭琉會有利で動いていきます。1981年抗争は終結します。1981年7月、旭琉會トップの多和田真山二代目会長が山口組2次団体・吉川組組長らと五分兄弟盃を交わす形で、手打ちが行われました。

 旭琉會トップの多和田真山は旭琉會の改革に着手した人物でもあります。1980年、傘下団体の14組織が月30万円を旭琉會に納める上納金制度を確立します。1982年1月には、傘下組織の縄張り改編(「島割り」)も行うことを表明します。島割りで、損をする組織も出てくるのは必至で、反発の声が上がります。1982年10月、多和田真山会長は沖縄市のスナック内で、旭琉會の構成員2人に射殺されます。多和田真山の改革の狙いは、「1次団体・旭琉會」の強化でした。1次団体が2次団体から上納金を徴収する上納金制度、1次団体が2次団体の稼業に関与する島割りは、2次団体に対して1次団体の力を強めさせる制度でした。1980年代、連合型の形態をとる1次団体は多かったです。住吉会、稲川会、極東会、松葉会、双愛会は現在、「直参制度」と呼ばれる垂直的な体制をとっていますが、1980年代は連合型の組織でした。多和田真山は、1981年7月に山口組との親戚関係を結んだことに続き、1982年5月には稲川会幹部とも五分の兄弟盃を交わしました。稲川会は別として、山口組は当時から「直参制度」を敷く体制をとっていました。他団体との交流によって、多和田真山は山口組のような「1次団体」を夢見たはずです。

 多和田真山射殺後、1983年5月に旭琉會会長を継いたのが翁長良宏です。三代目会長翁長良宏のもと、島割りは中止、上納金制度も廃止されました。しかし後に、上納金制度は月15万円の額で再開されます。同年11月には、翁長良宏と傘下団体トップ達との盃事が行われました。しかし親子盃ではなく、四分六の兄弟盃でした。つまり翁長良宏を「兄」そして傘下団体トップ達を「弟」とする盃です。また「兄弟の力関係」を兄が「六」そして弟が「四」とする盃です。つまり会長の翁長良宏は、傘下団体トップ達から「親分」とは呼ばれず、「兄貴」と呼ばれる関係です。ちなみに兄弟盃の種類としては、力関係が対等の「五分の兄弟」があり、以下順に力関係が開いていく「五厘下り」「四分六」「七三」「二分八」があります。

 多和田真山会長体制より、「1次団体・旭琉會」を弱めた翁長良宏会長体制ですが、1990年内部分裂が起きます。ナンバー2職の理事長・富永清が脱退し、沖縄旭琉會を結成しました。1990~1992年まで、旭琉會と沖縄旭琉會の抗争が続きます。抗争終了後も、両団体は残り続けました。しかし2010年7月、旭琉會と沖縄旭琉會は合併します。トップの会長は富永清が就きました。また旭琉會は直参制度を導入しました。

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