光生会、伊豆組に移籍

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 数ヵ月前の話になりますが、九州の山口組で大きな出来事がありました。福岡市を拠点にする2次団体・光生会が同じ福岡市に拠点を持つ2次団体・伊豆組に移籍することになったのです。光生会は伊豆組の傘下団体になる為、山口組の3次団体に降格となります。光生会のトップである光安克明は、伊豆組相談役に就くことになりました。光安克明は1次団体・山口組においては、最高幹部級に位置する若頭補佐を務めていた人物です。『日刊ゲンダイ』2016年3月29日号(28日発行)「溝口敦の斬り込み時評」は、光生会の経済事情の悪化が背景にあったことを伝えています。1次団体・山口組への上納金は、2015年8月末の分裂以前は月額115万でしたが、分裂以降月額65万円に減額されました。また現在は月額45万円にまで減額されたという話もあります。一方神戸山口組の上納金は、役付きなしトップの2次団体は10万円、役付きありのトップの2次団体は20万円です。神戸山口組の「上納金の低さ」に対抗する為、山口組も対抗して上納金を下げているのが実態です。山口組2次団体にとっては、経済的負担が減っています。しかし光生会の伊豆組移籍が物語るように、ヤクザ組織の経済的事情は厳しくなっています。

*今回記事を作成するにあたり『実話時代』2015年3、7月号、『日刊ゲンダイ』2016年3月29日号(28日発行)の情報を参考にさせて頂きました。

 光生会にとって、伊豆組は馴染みのある組織です。光生会の前身組織は伊豆一家でした。2001年伊豆一家のトップ伊豆誠一が引退するに伴い、伊豆一家若頭の光安克明が伊豆一家の地盤を継承しました。光安克明は組織自体を引き継ぎましたが、組織名称を光生会に変更したのです。伊豆一家を立ち上げた伊豆誠一は、元々伊豆組の出身者でした。つまり光生会の源流は伊豆組だったのです。伊豆組は1961年2月で、当時30代半ばの伊豆健児によって立ち上げられます。伊豆組の地盤は福岡の繁華街・中洲でした。同年10月、当時の山口組トップ田岡一雄から伊豆健児が親子の盃をもらいます。1年も経たないうちに伊豆組は、九州の独立ヤクザ組織から山口組・2次団体に変わっていったのです。伊豆組の抜擢の背景には、当時九州に拠点を僅かにしか持たない山口組において更なる九州進出の狙いがありました。九州の中心地・福岡市の勢いのある新興ヤクザ組織を引き込むにあたって、山口組は「2次団体」という好待遇を用意したのです。伊豆健児は、五代目組長・渡辺芳則体制下では、顧問を務めていました。

 5月26、27日に行われた伊勢志摩サミットを控えて、5月に入り山口組と神戸山口組の抗争は落ち着きました。分裂後、シノギの利権を巡り末端組員同士による小競り合いを上層部が止められないという懸念もありました。しかしサミット前の抗争の鎮静化は、両団体の統制力の強さを実証したことになりました。裏返せば、これまでの抗争は上層部の何らかの指揮・命令があったことを示唆しています。今後も予断を許さない展開になっていきます。

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