テキヤ組織の分家名のり

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 テキヤ組織が博徒系組織と異なる点の1つとして、トップ交代時における「前トップ舎弟」の扱いがあります(*1)。テキヤ組織の場合、「前トップの子分(1人)」が新トップに就きます(*1)。前トップ舎弟にとって、「新トップ」は前トップ体制時においては「おい」という位置にいました。逆に新トップにとって、前トップ体制時においては、「前トップ舎弟」は「叔父貴」という位置にいました。

 テキヤ組織の場合、新トップ体制になっても、前トップ舎弟は新トップの「叔父貴」であり続けます(*1)。一方、博徒系組織の場合、新トップには前トップの優秀な子分が就くのはテキヤ組織と同様ですが、前トップ舎弟は「新トップの舎弟」に関係が直されます(*1)。新トップ体制において、前トップ舎弟は「新トップの叔父貴」という位置から、「新トップの舎弟」という位置に下がることになるのです。

 テキヤ組織の場合、新トップにとって、叔父貴という「上位者」が組織内にいます。一方、博徒系組織の場合、新トップにとって、「上位者」は組織内になく、自らが「最上位者」として組織運営をすることができます(実際は、総裁などの名誉職者の存在がいる場合もあります)。

 組織運営の是非については、どちらの場合も長所と短所があります。テキヤ組織の長所としては、叔父貴という「上位者」の存在が、新トップの暴走化の阻止装置として働くことがあります。短所としては、新トップの意思決定及び指揮命令が徹底されないことがあります。一方、博徒系組織の場合、長所としては新トップの意思決定及び指揮命令の徹底があります。短所としては新トップの暴走化を阻止できないことがあります。

 テキヤ組織における最終的なキャリアのあり方として、テキヤ組織内トップの跡目を継ぐ他に、分家名のりがあります(*2)。テキヤ組織のキャリアは、「稼ぎこみ」→「一本」→「実子分」→「一家名乗り」→「代目」という順に進んでいきます(*3)。「稼ぎこみ」と「一本」は露店現場で活動する者で、子分の段階です(*3)。「実子分」も子分の段階に過ぎませんが、子分の中でも優秀な者という位置づけです(*3)。「一家名乗り」になった段階で、該当者は「親分」になることができます(*3)。「一家名乗り」の者は、自分の組織を立ち上げ、子分を抱えることができます(*3)。

 仮に出身母体A(親分X)という組織から、Bという組織(新親分Y)が一家名乗りしたとします。一家名乗りする前のYは、組織Aの中で活動しており、親分Xの子分でした。

 日本最大のテキヤ組織・極東会は1994年直参制度を導入しました(*4)。直参制度とは、「1次団体トップの者」と「2次団体トップの者」が親分-子分の関係を結ぶことで、「1次団体」と「2次団体」の組織関係も垂直的になるというものです(*4)。1994年における極東会の導入まで、テキヤ業界では直参制度はほぼ見られなかったのです(*4)。つまり1994年以前のテキヤ業界では「親分同士間の関係」は水平的だったと推測されます。

 先程の例に戻れば、Yが一家名乗りしたことで(Y自身も親分になったことで)、両者(XとY)の親分-子分関係は解消されたと考えられます。

 親分-子分の関係が適用されたのは、「一家名乗り」の組織内だけでした(*3)。

 極東会の2次団体・坂井一家(千葉県鎌ケ谷市)の三代目金子忠は1957年、坂井市郎が興したテキヤ組織に入門します(*5)。金子忠は「稼ぎこみ」を約4年経験します(*5)。入門から約8年経った26歳の時に、金子忠は「一家名乗り」を許され、鎌ケ谷で金子組を立ち上げます(*5)。金子組は名目上「坂井市郎のテキヤ組織内の組織」という位置づけですが、坂井市郎の強い拘束下には置かれません。

 金子組には当時40人以上の子分がいました(*5)。1974年坂井市郎が引退、組織の二代目を風間翼也が継ぎました(*5)。風間翼也の二代目就任時に、金子忠は分家名のりを許されていました(*5)。「分家名のりした組織」と「出身母体」との関係については、現在手元にある資料のみでは詳細に述べることができません。しかし「一家名乗り」の組織同様、分家名のりした組織は、出身母体のテキヤ組織から強い拘束下に置かれることはなかったと考えられます。

 1987年金子忠は、出身母体のテキヤ組織である坂井睦会(坂井市郎が興したテキヤ組織)の三代目を引き継ぎます(*5)。同時に、金子忠は坂井睦会を坂井連合会に改称します(*5)。組織名から坂井連合会は、複数の「一家名乗り」組織が集う組織形態だったことが分かります。

 坂井連合会は1次団体・極東関口会に加盟していました(*5)。当時の極東関口会も連合体の組織でした。坂井連合会に属する「一家名乗り」の組織(極東関口会の3次団体)は、坂井連合会を「自身の組織が参加する連合体の組織」、極東関口会を「自身の連合組織が参加する連合体の組織」という複雑な位置づけをしていました。

 対照的なのが、直参制度をとる山口組です(*4)。1950年代後半以降、山口組は勢力拡大をし続けても、親分-子分の関係つまり「垂直的な関係」を傘下団体に強いてきました(*4)。先述したように極東会(旧極東関口会)も1994年12月直参制度を導入しました(*4)。1次団体の直参制度導入の前後に、金子忠は坂井連合会を坂井一家に改称、同時に坂井一家内でも直参制度を導入しました(*5)。

 以降、坂井一家に属する「一家名乗り」の組織(極東会の3次団体)にとって、坂井一家とは「自身の組織の上部団体」、極東会とは「上部団体の上部団体」という単純な位置づけに変わりました。

<引用・参考文献>

*1 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p10-11

*2 『ヤクザ大辞典』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編、2002年、双葉文庫), p88

*3 『テキヤはどこからやってくるのか? 露店商いの近現代を辿る』(厚香苗、2014年、光文社新書), p141-142

*4 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p329-334

*5 『ヤクザに学ぶ指導力』(山平重樹、2003年、幻冬舎アウトロー文庫), p237-242

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