大日本興行

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 住吉会の2次団体・大日本興行は太平洋戦争後、東京の銀座で結成されました(*1)。創立者は高橋輝男です(*1)。高橋輝男は戦後、浦上信之をトップとする浦上グループに入ります(*1)。浦上グループの別名は「銀座警察」でした(*1)。浦上グループは銀座に事務所を置き、債権取り立てや会社乗っ取りグループの追及等の経済案件を担っていました(*2)。

 浦上グループの特長は、法律外の手法(暴力行使)を用いて解決に導けることでした(*2)。また浦上グループは暴力行使だけではなく、情報収集にも長けていました(*2)。経済案件に悩む企業にとって、法律的解決に頼れば時間はかかり、また自社の望まない展開も覚悟しなければなりません。お金はかかるものの、時間の節約、望む展開に至ることを期待して、浦上グループに依頼する企業は一定いたと考えられます。

 浦上信之は「銀座警察」の“署長”、高橋輝男は“司法主任”と位置付けられていました(*3)。高橋輝男が浦上グループの高い地位にいたことが窺い知れます。高橋輝男はその後、1951~1952年頃に大日本興行を結成します(*4)。大日本興行の稼業は多岐に渡っていました(*3)。貸植木業、寿司屋、ボクシング興行、映画製作、硫黄鉱山、青果市場経営(*3)、また総会屋対応(*1)なども大日本興行は手掛けていました。

 テキヤ組織を除いて、昔からヤクザ組織の稼業は、裏社会(違法領域)の需要を満たすものが多いです。典型が違法賭博です。従来のヤクザ稼業の型に捉われず、大日本興行は一般企業の事業領域に侵食していきました。表社会の事業領域において、大日本興行の有する「暴力装置」は希少価値となり、時と場合によって重宝されました。大日本興行はボクシング興行を目的とする大日本興業株式会社も設立していました(*4)。

 大日本興行は事務所を日比谷の日活国際会館に構えました(*1)。しかし1956年、同じ住吉一家内の抗争事件で、高橋輝男は死亡します(*1)。高橋輝男を襲撃したのは向後グループ(現在の向後睦会)でした(*1)。

 大日本興行は1989年、テキヤ組織の寄居田中宗家連合二代目菊心会(福島県福島市)を自組織に加入させます(*5)。加入後、寄居田中宗家連合二代目菊心会は奥州田中一家に改名します(*5)。また大日本興行は奥州生田一家(岩手県奥州市)という下部団体を抱えています(*5)。東北地方にも勢力を伸ばしたことが分かります。

<引用・参考文献>

*1 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂), p29-32

*2 『ヤクザ大辞典 親分への道』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫), p38

*3 『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』(山平重樹、2014年、幻冬舎アウトロー文庫), p70-71

*4 『洋泉社MOOK・ヤクザ・流血の抗争史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p52-55

*5 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p150

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