寄居

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 テキヤ組織のグループ「寄居」は東日本で活動してきました。寄居グループの源流組織は、鹿島峰太郎が群馬県で興したテキヤ組織でした(*1)。組織名は、鹿島峰太郎の出身地・埼玉県寄居町に由来しました(*1)。寄居グループは、内部の構成員が一家名乗りしていく形で、東日本に版図を拡大していきました (*2)。寄居グループの主な活動範囲は北海道、東北、関東、甲信地区でした(*1)。全盛期には寄居グループ全体で約3000人も構成員がいたといわれています(*1)。特に北海道の寄居グループは、北海道のテキヤ業界において、丁字家、源清田と並び「三大勢力」の1つに位置付けられていました(*3)。

   寄居グループの源流組織(鹿島峰太郎の興した組織)は、結成当初の名前は「舛峯一家」だったようで、後年「寄居宗家(よりいそうけ)」と呼ばれました(*4)。「寄居宗家二代目」には小島長次郎(1853年生まれ)が就きました(*4)。小島長次郎が二代目を継いだ後、鹿島峰太郎は1902(明治三十五)年、83歳で死去しました(*4)。阿佐美藤吉(1871年生まれ)が「寄居宗家三代目」を継ぎました(*4)。次に小島平太郎(1896年)が「寄居宗家四代目」を継ぎました(*4)。小島平太郎は、二代目の小島長次郎の実子でした(*4)。

 1974年「寄居」を名乗るテキヤ組織が再結集し、全日本寄居連合会が発足しました(*1)。全日本寄居連合会は、関東テキヤ組織の親睦団体・関東神農同志会(1984年結成)(*5)に参加していました(*6)。

 寄居分家三代目の飯久保武が、全日本寄居連合会の初代会長に就きました(*1)。寄居分家は群馬県前橋市を拠点としていました (*1)。

 「分家」はテキヤ組織業界では一目置かれる存在です。テキヤ業界では独立方法として主に「分家」「一家名乗り」の2つがあります(*7)。分家は独立時、元の組織から縄張りの一部を譲渡されました(*7)。一方、一家名乗りとして独立した組織は、元の組織から縄張りを譲渡されませんでした(*7)。分家は、独立時から縄張りを持つことができていた優良組織だったのです。

 「寄居分家の初代」は小島房吉でした(*4)。小島房吉の元の姓は宇野でした(*4)。宇野房吉(後の小島房吉)は1880(明治十三)年、美濃国(現在の岐阜県)で生まれました(*4)。宇野房吉は前橋監獄署における服役生活で、寄居の親分・小島亀吉と出会いました(*4)。小島亀吉は、先述の小島長次郎(寄居宗家二代目)の兄弟でした(*4)。宇野房吉は出所後、小島亀吉の娘・サクと結婚し、以後「小島」姓を名乗っていきました(*4)。寄居分家初代の小島房吉は1934(昭和九)年、55歳で死去しました(*4)。

 「寄居分家二代目」には飯久保新造が就きました(*4)。飯久保新造は1933(昭和八)年、前橋市議会議員に当選し、政界に進出しました(*4)。飯久保新造は1957年、64歳で死去しました(*4)。先述の飯久保武が1957年、寄居分家三代目を継ぎました(*1)。

 後に、寄居グループの中で、広域団体に移籍する動きが続出しました。1989年、北海道の寄居関保連合(現在の山口組2次団体・旭導会)が山口組の傘下に入りました(*3)。同年、福島県福島市の寄居田中宗家連合二代目菊心会が住吉連合会大日本興行に入りました(*3)。

 1990年には北海道釧路市の寄居勇心会(現在の住吉会2次団体・勇心会)が住吉連合会、福島県郡山市の寄居田中宗家連合真会(現在の稲川会2次団体・紘龍一家)が稲川会に移籍しました(*3)。

<引用・参考文献>

*1 『ヤクザ大辞典 親分への道』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫), p155-170

*2 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p14

*3 『洋泉社MOOK・勃発!関東ヤクザ戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2002年、洋泉社), p146-150

*4 『実話時代』2016年1月号「にっぽん名俠選 寄居分家初代 小島房吉」(大谷浩二), p98-102

*5 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p76

*6 『FOR BEGINNERS シリーズ㊷ 右翼』(第Ⅱ部著者・猪野健治、1999年、現代書館), p157

*7 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p72-73

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