合田一家のトップ在任期間

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  合田一家は山口県下関市を本拠地とするヤクザ組織で、公安委員会より指定暴力団に指定されています(*1)。2016年時、合田一家は山口県をはじめとする3県を活動範囲とし、約90人の構成員を有していました(*1)。合田一家は1948年、下関で合田幸一によって結成されました(*2)。

 合田一家の前身は籠寅組でした(*2)。籠寅組は明治時代、保良浅之助によって立ち上げられました(*2)。保良浅之助は大阪のヤクザ組織出身でしたが、魚運搬用木箱製造の事業を営んでいました(*2)。1906年保良浅之助は木箱製造工場を下関に新しく設置、下関に進出しました(*2)。前年(1905年)、下関と朝鮮半島の釜山を行き来する関釜連絡船が就航していました(*2)。下関は当時、交通の要衝でした。籠寅組は以降、製材所や製氷所、また興行の分野まで手掛けていきました(*2)。保良浅之助は後に、籠寅組を実子・寅之助に譲りました(*2)。太平洋戦争後、籠寅組二代目・保良寅之助の跡を継いだのが合田幸一でした(*2)。

 合田幸一は1948~1975年まで合田一家トップにいました(*2)。合田幸一は親睦団体「関西二十日会」(1970~1989年)設立の提唱者でした(*3)。関西二十日会には「進出をもって臨む組織には、団結して“力には力を”の断固たる抗戦姿勢をとる」という方針があり、「山口組」の対抗意思を暗に含んでいました(*3)。当時、合田一家と山口組との関係は友好的ではなかったと考えられます。

 合田一家二代目を継いだのが浜部一郎でした(*2)。浜部一郎は山口県徳山を拠点に活動した浜部組のトップで、広島の共政会に参加していた過去があります(*4)。浜部一郎は1983年に引退しました(*2)。1983年合田一家三代目を浜崎彰が継ぎましたが、翌1984年病気により死去しました(*2)。1985年合田一家四代目を川崎友治が継ぎましたが、翌1986年病気により死去しました(*2)。3年の間でトップが続けて死去する事態に合田一家は陥りました。

 1987年合田一家五代目を山中大康が継ぎました(*2)。山中大康は川崎友治四代目体制では舎弟の地位で、小桜組(合田一家2次団体)を率いていました(*5)。山中大康は1993年に引退しました(*4)。山中大康五代目体制では、合田一家最高幹部と山口組2次団体・安達組最高幹部の間で義兄弟盃が交わされ、山口組と友好関係を持つようになっていました(*5)。1994年合田一家六代目を温井完治が継ぎました(*2)。2009年温井完治が引退し、同年、末広誠が七代目を継ぎました(*4)。

 合田一家トップ在任期間は、合田幸一(初代):1948~1975年、浜部一郎(二代目):1976~1983年、浜崎彰(三代目):1983~1984年、川崎友治(四代目):1985~1986年、山中大康(五代目):1987~1993年、温井完治(六代目):1994~2009年、末広誠(七代目):2009~2018年現在、とそれぞれなっています。

<引用・参考文献>

*1 警察庁「平成28年における 組織犯罪の情勢」, p34

*2 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p90-93

*3 『実話時代』2017年9月号, p29-30

*4 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊), p70

*5 『実話時代』2016年8月号, p51

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