酒梅組

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  酒梅組は大阪市を拠点に活動し、2016年時で約30人の構成員を抱え、公安委員会から指定暴力団に指定さています(*1)。酒梅組は明治中期、鳶梅吉によって結成された博徒組織です(*2)。以降、酒梅組は大阪市の中央区、浪速区北部を活動範囲としました(*3)。現在大阪市二大繁華街のミナミを酒梅組は資金源としていたことが分かります。1931年、初代の鳶梅吉は死去しました(*4)。二代目組長に田中勇吉が就任しましたが、1935年死去しました(*4)。三代目組長に就任したのが松山庄次郎でした(*4)。

 太平洋戦争終了(1945年)後、酒梅組は従来の賭博ビジネスを活発化させていきました(*2)。また松山庄次郎は全日本プロレス協会を設立、会長になり、興行界に影響力を及ぼしました(*4)。1958年頃飛田遊郭ビジネスは、酒海組2次団体・鬼頭組により仕切られていました(*5)。酒梅組が賭博ビジネス以外の資金獲得業を行っていたことが分かります。

 1961年松山庄次郎は死去しました(*4)。三代目松山庄次郎の死去から3年後、1964年四代目組長に中納幸男が就任しました(*4)。3年間のトップ不在期間は、円滑に四代目組長が決まらなかったことを物語っています。1979年中納幸男が引退、五代目組長に谷口正雄が就任しました(*4)。五代目組長谷口正雄体制(1979~1995年)時、酒梅組は最盛期構成員約2,000人を持ち、勢いにのっていました(*4)。1964年、ヤクザ組織に対する警察庁の取締り強化(通称:頂上作戦)に並行して、賭博の非現行検挙が実施され、ヤクザ組織の賭博ビジネスは打撃を受けました(*6)。1979~1995年間の勢力伸張から、酒梅組が賭博ビジネス以外の資金獲得業にも長けていたことが考えられます。

 1995年谷口正雄が死去、翌1996年大山光司が六代目組長に就任しました(*4)。1999年金山耕三朗が七代目組長に就任しました(*4)。2009年金山耕三朗が引退、翌2010年南喜雅が八代目組長に就任しました(*2)。2013年南喜雅が引退、吉村光男が九代目組長に就任しました(*2)。

 三代目組長松山庄次郎体制時(1935~1961年)、酒梅組は山口組と親戚関係を結びました(*2)。松山庄次郎は山口組三代目組長田岡一雄と兄弟分の関係でした(*2)。以降も酒梅組と山口組の親戚関係は続きました(*2)。酒梅組は山口組と大規模な抗争をせず、現在に至っています。戦後、大阪の有名博徒組織として、松田組が知られていました(*7)。戦後、松田組は大阪市西成を拠点に結成されました(*7)。松田組の主な資金獲得業は賭博でした(*7)。

 松田組は関西二十日会(1970~1989年)に参加していました(*8)。関西二十日会は「反山口組」の性格が強い親睦団体でした(*8)。松田組は1975~1978年山口組と抗争、結果、組織縮小に陥りました(*7)。松田組は松田連合と改名するも、1983年解散しました(*7)。松田組の例を踏まえると、山口組との親戚関係も、酒梅組の存続において重要であったと考えられます。

<引用・参考文献>

*1 警察庁「平成28年における 組織犯罪の情勢」, p34

*2 『実話時代』2015年7月号, p40

*3 『実話時代』2018年9月号, p46-47

*4 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p128-133

*5 『実話時代』2017年1月号, p26-27

*6 『ヤクザ大辞典』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫), p108-109

*7『洋泉社MOOK・ヤクザ・流血の抗争史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p116-124

*8『実話時代』2017年9月号, p29-30

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