角力博打

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 明治時代(1868~1912年)、角力博打が流行りました(*1)。角力(かくりょく)とは相撲のことで、角力博打は文字通り、相撲の勝敗に賭ける博打でした(*1)。1897年頃、京都の中心部では、四ケ所の角力場において、毎月角力が開催されていました(*1)。四ケ所は、京極御幸通り、伏見、白川、六角堂でした(*1)。京極御幸通りと六角堂の角力場を仕切っていたのが、会津小鉄一家・2次団体いろは会でした(*1)。いろは会トップのいろは幸太郎は、会津小鉄一家の最高幹部でした(*2)。1897年当時、1次団体の会津小鉄一家トップは上坂卯之松でした(*2)。上坂卯之松は、会津小鉄一家を設立した上坂仙吉の実子でした(*2)。いろは幸太郎が京極御幸通りを、いろは会若頭の山本覚太郎が六角堂の角力場を仕切っていました(*1)。

<引用・参考文献>

*1 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p23

*2 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p75-76

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