テキヤ組織にとっての平日露店営業

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 太平洋戦争終了(1945年)後、闇市の成立に伴い、テキヤ組織は勢力を拡大させました(*1)。1946年の東京において約8万人の露店商(テキヤ組織の構成員の数なのか、周辺者も含む数なのかは分からない)がいたとされています(*1)。

 しかしその後、テキヤ組織の勢いは止まりました(*2)。要因の1つとして、常設露店の禁止が挙げられました(*2)。常設露店は「ヒラビ」と呼ばれていました(*3)。

 「ヒラビ」という名は、「平日」の訓読みから来ていました(*3)。ヒラビは駅前広場や盛り場の路上で営業をしていました(*3) 。ヒラビは、高市(祭や縁日)に比べて、ショバ割り(出店場所の振り分け)(*4)が厳密ではありませんでした(*3)。新規参入組にとって、ヒラビ営業は参入しやすい領域だったと考えられます。

 テキヤ組織の親分衆がヒラビ営業の再開運動をしたことから、テキヤ組織にとってヒラビ営業の収入は大きかったと推測されます(*2)。一方で露店商の中には、無許可で露店営業(通称「ひろい」)をする者もいました(*2)。

<引用・参考文献>

*1 『現代ヤクザに学ぶ「銭の作り方」』(別冊宝島編集部編、2008年、宝島SUGOI文庫),p114

*2 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p177

*3 『新・ヤクザという生き方』「全丁字家誠心会芝山一家物語」(朝倉喬司、1998年、宝島社文庫), p204-206

*4 『親分 実録日本俠客伝①』, p223

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