丁字家一門の源流

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 丁字家一門(丁字家系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)の源流組織は、江戸時代から甲州(山梨県)でテキヤ組織として活動していたといわれています(*1)。

 明治時代(1868~1912年)の初頭、古田健太郎が親分-子分の関係に基づくテキヤ組織として「甲州丁子家」を結成したと考えられています(*1)。

 「甲州丁子家」の組織名が示すように、明治時代まで源流組織の名は丁字家ではなく「丁子家」でした(*1)。「字」ではなく「子」が組織名に使用されていました。

 甲州丁子家の時代まで、源流組織は丁子油などの化粧品や薬を売っていたといわれています(*1)。古田健太郎は丁字家(本家)の「初代」として位置づけられてきました(*1)。

 明治時代末期、甲州丁子家の佐橋健太郎(*2)が甲州を去り、東京・浅草で「関東丁字家」を結成しました (*3)。関東丁字家は「子」ではなく「字」の字を組織名に採用していることから、関東丁字家の結成以降、一門全体でも丁子家ではなく「丁字家」を組織名に使用していったと考えられます。

 1921年(大正十年)頃までに、佐橋健太郎は浅草の露店業界において一定の勢力を築き上げました(*2)。1923年(大正十二年)関東大震災が起き、多くの生活困窮者を発生させました(*2)。関東のテキヤ組織は生活困窮者の受け皿となり、勢力を拡大させました(*2)。

 関東丁字家も関東大震災(1923年)を機に、勢力を拡大させたと考えられます。佐橋健太郎の子分には、芝山益久がいました(*2)。芝山益久は1900年(明治三十三年)浅草で生まれました(*3)。能村菊次郎が関東丁字家二代目を継承した際(*2)、芝山益久は関東丁字家から「一家名乗り」をする形で独立(*2)、「関東丁字家初代佐橋一家芝山」(*4)を興しました。

 別の資料では芝山益久は一家名乗りではなく「分家名乗り」をしたとなっていました(*5)。

 テキヤ業界では所属組織(宗家組織)から独立する際、「一家名乗り」「分家名乗り」という2つの方法がありました(*6)。「一家名乗り」は実績のある子分に許されました(*7)。一方「分家名乗り」は一般的に実績のある舎弟(トップ=親分の弟分)に許されました(*7)。

 元の所属組織(宗家組織)は、一家名乗りして独立した者には、庭場を割譲しませんでした(*8)。一方、元の所属組織は分家名乗りして独立した者には、庭場(縄張り)の一部を譲渡しました(*8)。

 関東丁字家(初代・佐橋健太郎)からは坂部武次郎が「分家名乗り」をして、「坂部組」を結成しました(*9)。

<引用・参考文献>

*1 『新・ヤクザという生き方』(朝倉喬司、1998年、宝島社文庫), p227

*2 『新・ヤクザという生き方』, p230-234

*3 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p63-64

*4 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p58

*5 『仁義の祭り – 実録戦後やくざ史』「横浜極道者」(藤田五郎、1988年、青樹社),p158

*6 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p28

*7 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p99

*8 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p72-73

*9 『公安大要覧』(藤田五郎、1983年、笠倉出版社),p346

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