稲川会初代の稲川聖城会長体制時(期間:1949~1986年)、「錦政会」から「稲川会」と改称した1972年以後、ナンバー2の理事長職は2人の人物が担いました(*1)。1972~1980年理事長を務めた石井隆匡(横須賀一家総長)と(*2) (*1)、1980~1985年理事長を務めた趙春樹(箱屋一家総長)(*1) (*3)の2人です。1980年4月7日東京地裁で石井隆匡は懲役5年の判決を受け、刑に服しました (*1)。石井隆匡が刑に服した1980~1985年の間、趙春樹が「石井隆匡の代わり」に理事長を務めたとも映ります。
石井隆匡と趙春樹は元々、別の1次団体に属していました。石井隆匡は双愛会系列の石塚一家の出身でした(*4)。趙春樹の箱屋一家は日本国粋会に入っていましたが、後に稲川会に移籍しました(*3)。稲川聖城が他団体からの移籍者にも重要な地位を任せていたことが分かります。
<引用・参考文献>
*1 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p32-39
*2 『現代ヤクザのウラ知識』(溝口敦、1998年、宝島社文庫), p222
*3 『実話時代』2019年6月号, p37
*4 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p38-39
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