東北神農同志会の会則二十七条

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 1986年5月、東北地方で活動するテキヤ組織17団体により、親睦団体「東北神農同志会」が結成されました(*1)。参加団体は西海家、東京盛代、不流一家、源清田、飯島、桝屋、姉ヶ崎、極東、花又、松前屋、寄居、会津屋、梅家、丸正、奥州山口、両国家、丁字家の17団体でした(*1)。

 結成の前年1985年、北海道の誠友会(非テキヤ組織)が山口組の傘下に入りました(*1)。東北神農同志会結成の背景として、各テキヤ組織が「広域1次団体の傘下」に入ることを防ぐことがありました(*1)。

 結成時の1986年5月、東北神農同志会は七章二十六条に及ぶ会則を作りました(*1)。結成から2カ月後の1986年7月の総会で、東北神農同志会は会則を追加しました(*1)。追加された二十七条は、「庭主が稼業違いの組織に移籍した場合、庭場を本家に返還する」という内容でした(*1)。二十七条には「本家が稼業違いの組織に移籍した場合、東北神農同志会に庭場を預ける」という内容も含まれていました(*1)。

 稼業違いの組織とは、広域1次団体で博徒系の山口組、住吉連合会、稲川会を意味していました。会則二十七条は庭主に、山口組等の傘下に入った代償として、「庭場の放棄」を科すものでした。庭主は、庭場の高市(縁日、祭礼)で、露店の配置権限を持っています(*1)。一方、庭主は露店商人から場所代を受けとります(*2)。つまり庭場の放棄は、「場所代の収入が無くなる」ことを意味していました。庭主の立場にあるテキヤ組織にとって、庭場の放棄は経済的に大きな問題でした。

 しかし1989年奥州梅家連合会、青森梅家連合会が稲川会に移籍、寄居田中宗家連合二代目菊心会が住吉連合会に移籍しました(*3)。以降、各テキヤ組織の広域1次団体への移籍が続き、東北神農同志会は自然消滅しました(*3)。会則二十七条は文面内容に比し、実態は各テキヤ組織に対し強い拘束力を持たなかったことが推測されます。

<引用・参考文献>

*1 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p84-87

*2 『GEKIDAS 激裏情報@大事典vol.5』(激裏情報、2012年、三才ブックス), p82-83

*3 『実話時代』2017年9月号, p25

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