波谷組

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 かつて「波谷組」という独立組織が活動していました(*1)。波谷組の拠点は大阪でした(*1)。波谷組が独立組織として主に活動した期間は1981年から1990年でした(*1)。全盛期の波谷組では、下部団体数は20、構成員数は約250人でした(*2)。波谷組組長(トップ)は波谷守之でした(*2)。

 波谷守之は1929年広島県呉市で生まれ、呉市の「土岡組」に属しました(*2)。1952年6月土岡組の土岡博組長が敵対組織により射殺されたことから、土岡組は衰退していきました(*2)。1959年刑期を務め終えた波谷守之は、西日本各地の賭場を渡り歩き、勝負師としての顔を売っていったと言われています(*2)。

 大事な局面で一発勝負する豪快さ、賭場上の所作が見事だったと言われています(*2)。波谷守之自身が賭場を開いて、繁盛していたと言われています(*3)。波谷守之が賭場の集客目的に、自身のエピソードを多少脚色し流布していた側面はあったと考えられます。

 波谷守之はその後、「山口組」若頭補佐・菅谷正雄の舎弟になり、山口組2次団体「菅谷組」に入りました(*2)。波谷守之は山陽道で起きていた「共政会・浅野組」対「十一会梶山派・俠道会」の抗争終結の為に働き、結果1972年5月両陣営は和解に至りました(*4)。1977年4月菅谷正雄が山口組から絶縁処分を受け、菅谷組は独立組織となりました (*5)。

 1981年菅谷組は解散しました(*1)。以降、波谷守之は「波谷組」を立ち上げ、その組織の長になりました(*1)。波谷組には「大日本正義団」が加わりました(*1)。山口組と「松田組」の抗争(1975~1978年)において大日本正義団(松田組3次団体)は山口組に対し複数回攻撃をかけたことから、「好戦的な組織」として有名でした(*6)。1978年暮れ大日本正義団は松田組から離脱していました(*6) (*7)。

 1989年西日本ヤクザ組織の親睦団体「西日本二十日会」が発足しました(*8)。波谷組は西日本二十日会に加盟しました(*8)。1990年6月波谷組と山口組2次団体「弘道会」との間で抗争が勃発しました(*1)。抗争は弘道会が優勢でした(*1)。1990年12月両団体は和解に至り、抗争は終結しました(*1)。

 1991年1月波谷組は西日本二十日会を離脱しました(*8)。以降、波谷組の勢力を大幅に減少していきました(*2)。1994年11月波谷守之は大阪市の自宅にて拳銃自決しました(*2)。波谷守之の自決時、波谷組の構成員は数人という状況でした(*2)。

<引用・参考文献>

*1 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂), p248-254

*2 『ヤクザの死に様 伝説に残る43人』(山平重樹、2014年、幻冬舎アウトロー文庫), p241-248

*3 『ヤクザ大辞典 親分への道』(山平重樹監修、週刊大衆編集部編・著、2002年、双葉文庫), p91

*4 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、1999年、洋泉社), p152

*5 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』, p88-90

*6 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』, p136-147

*7 『ヤクザの散り際 歴史に名を刻む40人』(山平重樹、2012年、幻冬舎アウトロー文庫), p264

*8 『実話時代』2017年9月号, p30-31

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