太平洋戦争終了(1945年)以前、テキヤ業界では演歌師が活動していました(*1)。演歌師の石田一松は「両国家」一門(両国家系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)の組織に所属し、全国の高市(祭りや縁日)(*2)を回っていました(*1)。
当時の演歌師は2人一組で、1人が歌い、もう1人が歌詞パンフレットを売っていました(*1)。歌う者が「集客役」、パンフレットを売る者が「資金回収役」でした。石田一松は太平洋戦争終了後、衆議院議員総選挙に出馬し当選、議員となりました(*1)。
演歌の源流は「壮士節」でした(*3)。明治時代の自由民権運動において、民権壮士は街頭で政府批判等を歌にして訴えていました(*3)。
「民権壮士の街頭歌」が壮士節と呼ばれました(*3)。元々、民権壮士は会場で演説をしていましたが、演説内容が政府批判に及ぶと、会場内の官憲が演説を中止にしました(*3)。
民権壮士は場所を「会場」から「街頭」に、また表現方法を「演説」から「歌」(壮士節)変え、自由民権運動を推進していったのです(*3)。
「関口」一門(関口愛治系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)の始祖である関口愛治も若かりし頃、1910年(明治四十三年)~1914年(大正三年)、テキヤ組織「飴徳一家」(初代:竹内徳次郎)内の桜井庄之助率いるグループの関係者として、横浜で演歌師として活動していました(*4)。桜井庄之助は1921年(大正十年)、竹内徳次郎(飴徳一家初代)の引退に伴って、飴徳一家から「一家名乗り」をし、沼津で「桜井一家」を興しました(*4)。
1914年(大正三年)関口愛治は演歌師の活動拠点を浅草に移しました(*4)。「飯島」一門(飯島源次郎系統のテキヤ組織群、その系統の一人親方群)の倉持忠助(後に東京市議会議員になる)も元々演歌師でした(*5)。
太平洋戦争終了後、飯島一門には「柿沼楽団」という演歌師グループが活動していました(*6)。柿沼楽団は政治結社「桜誠会」を興しました(*6)。
当時のテキヤ組織が音楽業界と近かったことが分かります。
<引用・参考文献>
*1 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p123-124
*2 『ヤクザに学ぶ 伸びる男 ダメなヤツ』(山平重樹、2008年、徳間文庫), p155
*3 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p66-67
*4 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p31-33,39
*5 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』, p65
*6 『公安百年史 - 暴力追放の足跡』(藤田五郎編著、1978年、公安問題研究協会),p713
コメント