ヤクザ組織は公営ギャンブル場を資金獲得源の1つとしていました。太平洋戦争終了(1945年)以降、国や自治体の収入確保の目的で、競馬や競艇等の公営ギャンブルが始まりました(*1)。公営ギャンブル場は警備業務をヤクザ組織に外注しました(*1)。1956年神戸競輪場には、山口組、大島組等計6団体の構成員50人が「警備員」として従事していました(*1)。加えて、神戸競輪場の予想屋、売店、タクシーの業務もヤクザ組織は手掛けていました(*1)。
山口組3次団体・川内組(福井県三国)は三国競艇場から警備業務を請け負っていました(*2)。川内組はレースの八百長も仕組みました(*2)。1963年川内組は山口組2次団体・菅谷組の傘下に入りました(*3)。山口組入り以降、川内組は北陸をはじめ中部や東北地方などにも進出し(*4)、構成員400名以上を抱えるまでに至りました(*2)。川内組上部団体の菅谷組構成員数は1,500人超でした(*2)。菅谷組内における川内組構成員数の占める割合は約27%でした。川内組は菅谷組内の最大勢力でした(*2)。菅谷組トップ・菅谷政雄は川内組を脅威と捉えていたのか、1977年1月川内組トップ・川内弘を破門(*5)、同年4月には川内弘を暗殺しました(*6)。
<引用・参考文献>
*1 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、1998年、講談社+α文庫), p80-81
*2 『大阪ヤクザ戦争 ~30年目の真実~』(木村勝美、2009年、メディアックス), p43-44,49
*3 『大阪ヤクザ戦争 ~30年目の真実~』, p40
*4 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p44
*5 『大阪ヤクザ戦争 ~30年目の真実~』, p50
*6 『大阪ヤクザ戦争 ~30年目の真実~』, p55-56
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