強盗団と闇市

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  1971~1976年の山口組において、菅谷組が最大2次団体に位置していました(*1)。菅谷組は構成員1,000~1,500人を抱えていました(*1) (*2)。菅谷組トップ菅谷政雄は1959年山口組に入り、2次団体・菅谷組を結成しました(*1) (*2)。山口組入りと同時に2次団体トップに就けた背景として、裏社会における菅谷政雄の実績が挙げられます。

 菅谷政雄は元々「強盗団」の首領でした。太平洋戦争終了(1945年)後、菅谷政雄は神戸市を拠点に、40人規模の組織(愚連隊)を率いていました(*3)。菅谷政雄は部下らに、阪神国道でトラック強盗をさせていました(*3)。菅谷政雄の強盗団は米軍の偽腕章を巻くなど「米軍傘下の隠退物資摘発隊」と偽り、トラックを止め、荷物を押収しました(*3)。以上のエピソードは実際あったものと考えられますが、菅谷政雄の強盗団は武力行使もしながら荷物を押収していたと考えるのが妥当でしょう。「知恵を用いて武力を用いなかった」のように聞こえる以上のエピソードは、後年菅谷政雄を賛美する目的で、流布されたと考えられます。1946年菅谷政雄は逮捕され、長期刑に服しました(*4)。1959年菅谷政雄は出所し、即山口組に入りました(*1)。

 逮捕以前、菅谷政雄の強盗団は押収品を神戸市・三宮の闇市に供給しました(*3)。1945~1950年頃日本には闇市がありました(*5)。当時の日本の法律上、食糧や日用品は統制機関により供給されました(*6)。統制機関は食糧や日用品を「公定価格」としていました(*6)。公定価格は固定的である為、需要の低下でも下落せず、需要の増加でも上昇しません。一方、闇市は「自由価格」で食糧や日用品を供給しました(*6)。需要増の当時、生産側にとって、生産品を統制機関に供給するより、闇市に供給した方が利益になりました。当時の特殊な市場環境を背景に、闇市は生き延びました。当然、闇市は「違法領域」の存在でした。闇市の性格上、品は「入手経路」を問われることなく、闇市に流入したと考えられます。強盗団と闇市の親和性は高かったと考えられます。

 1945年以降、沖縄県においても米軍基地の物資を強盗する組織がいました(*7)。米軍基地の物資を強盗する組織は別名「戦果アギャー」と呼ばれました(*7)。当時の沖縄県下の物資供給は米軍により行われていました(*7)。当時の沖縄県においても、米軍による物資供給とは異なる「違法領域の市場」が存在したと考えられます。

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、1999年、洋泉社), p84-90

*2 『大阪ヤクザ戦争 ~30年目の真実~』(木村勝美、2009年、メディアックス), p38-44

*3 『大阪ヤクザ戦争 ~30年目の真実~』, p28-30

*4 『大阪ヤクザ戦争 ~30年目の真実~』, p34-36

*5 『東京のヤミ市』(松平誠、2019年、講談社学術文庫), p150-167

*6 『東京のヤミ市』, p206-207

*7 『洋泉社MOOK・沖縄ヤクザ50年戦争』(有限会社創雄社『実話時代』田中博昭編、2004年、洋泉社), p23-25

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