三代目山口組体制の七人衆制度

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 三代目山口組田岡一雄組長体制(体制期間:1946~1981年)は1946年に開始しました(*1)。1946年時の山口組構成員数(舎弟、子分)は33人でした(*1)。17年後の1963年、山口組において「七人衆制度」という執行部体制が設けられました(*1)。七人衆制度では、山口組最高幹部7人(七人衆)により構成された機関は月1回の定例会において、重要事項を協議しました(*1)。七人衆の機関は「最高議決機関」でした(*2)。七人衆の機関は「最高意思決定機関」ではなかったと考えられます。山口組の最高意思決定は田岡一雄に委ねられていたと考えられます。

 七人衆制度導入前(1963年以前)、三代目山口組の執行部には、若頭が置かれているだけでした。七人衆制度導入前、若頭を務めていたのは安原政雄、地道行雄の2人でした(*3)。安原政雄は三代目山口組体制で初の若頭に就任、1955年頃地道行雄に若頭を譲り、舎弟になりました(*3)。地道行雄は1955年頃若頭に就任、1968 年まで若頭を務めました(*3)。1963年以前の三代目山口組における重要事項の決定は、トップの田岡一雄、若頭の安原政雄や地道行雄によって行われていたと考えられます。

 1957年山口組は大分県や徳島県で他団体と抗争をしました(*4)。以降、山口組は各地に進出、勢力を拡大していきました(*4)。組織膨張に伴い、山口組執行部(田岡一雄と地道行雄)の処理事項は増えていったと考えられます。両名は自身らだけでは処理しきれないと判断した結果、1963年から七人衆制度を導入したと考えられます。七人衆制度と同時に、若頭補佐という職も新たに設けられました(*2)。1963年時、若頭補佐職は「七人衆の機関の下」に位置付けられていました(*2)。

 七人衆は、地道行雄(山口組若頭)、松本一美(山口組舎弟頭)、藤村唯夫(山口組2次団体・旧南道会トップ)、松本国松(山口組2次団体・十九組トップ)、安原武夫(安原運輸社長)、三木好美(神戸芸能社長)、岡精義(三友企業社長)により構成されていました(*5)。1963年時点、七人衆のうち3人(地道行雄、松本一美、松本国松)が山口組内で2次団体(一定の勢力)を持っていました。地道行雄は地道組(神戸市)を率いていました(*5)。1957年以降の山口組の勢力拡大運動において、地道組は菅谷組、小西一家、柳川組とともに主要な役割を果たしました(*6)。松本一美は松本組(神戸市)を率いていました(*5)。松本一美は神戸市役所に務めていましたが退職、その後1949年頃「田岡一雄の舎弟」として山口組に入りました(*5)。七人衆制度導入時(1963年)に松本一美は「舎弟頭」に就任しました(*5)。しかし1967年松本一美は舎弟頭の職から降りました (*5)。松本国松は十九組(尼崎市)を率いていました(*5)。十九組の前身は愚連隊・十九会でした(*5)。十九会の結成者が松本国松でした(*5)。組織名は、松本国松の実家の八百屋が「他店では20銭で販売された物を19銭で販売していた」というエピソードから由来していました(*5)。1951年松本国松は「田岡一雄の舎弟」として山口組に入りました(*5)。

 藤村唯夫は1962年まで山口組2次団体・南道会を率いていました(*5)。南道会は1962年解散しました(*5)。旧南道会の幹部8人は山口組直参(山口組2次団体トップ)となりました(*5)。1962年時の南道会解散の実態は、「南道会の組織再編」だったと考えられます。藤村唯夫は1945年大阪市のミナミで南道会を結成しました(*7)。1926年頃以降(昭和初期)、大阪で最初の愚連隊「かどや」がミナミの道頓堀で結成されました(*7)。藤村唯夫は「かどや」の流れをくんでいました(*7)。南道会は愚連隊組織で、ミナミのキャバレーやバーからミカジメ料を徴収していました(*7)。南道会は最盛期で構成員約100人を抱えていました(*7)。藤村唯夫は1949年頃「田岡一雄の舎弟」として山口組に入りました(*5)。

 七人衆のうち、1963年前後に2次団体を持たなかった3人(安原武夫、三木好美、岡精義)は山口組の「企業舎弟」でした。安原運輸、神戸芸能、三友企業の3社は山口組と深いつながりを持つ「山口組の関連企業」でした(*5)。1963年時、3人とも経営者であり「山口組在籍者」でした(*6)。安原武夫の実弟は安原政雄でした(*5)。

 七人衆のうち、地道行雄だけが「田岡一雄の子分」で、残りの6人は「田岡一雄の舎弟」でした(*5)。岡精義は1946年「田岡一雄の子分」として山口組入りしましたが、後に舎弟になりました(*5)。

 七人衆制度導入の翌1964年、警察庁によるヤクザ組織の取締り強化(通称:頂上作戦)が開始されました(*8)。取締り強化により、1967年までに多くの1次団体が解散しました(*8)。山口組は解散せず、存続しました(*8)。しかし山口組の中では、2次団体の解散、関連企業の脱退がありました。七人衆においては1966年十九組が解散、トップ松本国松はヤクザ業界から引退しました(*5)。同年(1966年)安原運輸の安原武夫、三友企業の岡精義が山口組から脱退しました(*9)。興行を手掛けていた神戸芸能は1965年以降公共施設の利用禁止により、活動停止となりました(*10)。

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<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、1999年、洋泉社), p62-64,162

*2 『山口組若頭』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p62-63

*3 『山口組若頭』, p16-23

*4 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p444

*5 『山口組の100年 完全データBOOK』, p136-143

*6 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、2015年、講談社+α文庫), p98-100

*7 『洋泉社MOOK・「愚連隊伝説」彼らは恐竜のように消えた』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p148

*8 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p168-170

*9 『血と抗争 山口組三代目』, p358

*10 『興行界の顔役』(猪野健治、2004年、ちくま文庫), p95

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