1990年代の稲葉地一家

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 稲葉地一家は幕末、富田善七(通称:日比津の善七)により結成された博徒組織です(*1)。富田善七の博徒組織は「稲葉地一家」とは名乗っていませんでした(*1)。稲葉地一家の源流組織は、幕末から明治時代(1868~1912年)初期、名古屋西部地方を活動範囲としていました(*1)。当時の名古屋西部地方には、稲葉地一家の源流組織の賭場が沢山あったと考えられます。博徒組織の縄張りとは「賭場の開帳権を行使できる地理的範囲」のことです(*2)。

 富田善七の死去後、甚之助が富田善七の博徒組織を引き継ぎました(*1)。甚之助は名古屋一帯に組織の活動範囲を拡げました(*1)。甚之助の時代に、その博徒組織は「稲葉地一家」と名乗るようになったようです(*1)。甚之助は「愛知郡中村大字稲葉地」の出身で、その地名を組織名に採用したようです(*1)。甚之助は1890年(明治二十三年)に死去しました(*1)。

 太平洋戦争終了(1945年)以降、稲葉地一家は三重県北部にも活動範囲を拡大させていました(*3)。三重県北部の都市にも、稲葉地一家の賭場が開帳されていたと考えられます。

 ちなみに東海地方の老舗博徒組織としては、他に平野家一家、瀬戸一家がありました(*1)。

 1992年稲葉地一家は弘道会の傘下に入りました(*4) (*5)。当時の稲葉地一家トップは中村英昭(1992年最高位の総長に就任)でした(*4) (*6)。中村英昭は稲葉地一家九代目になりました(*7)。

 稲葉地一家六代目の伊藤信男の場合、名称は「総裁」でした(*1)。2017年稲葉地一家十代目の松山猛は服役生活を終了、出所しました(*8)。2017年時の松山猛は「十代目稲葉地一家総長」と呼ばれていました(*8)。ある時期に稲葉地一家において最高位の名称が「総裁」から「総長」に切り替わったと考えられます。

 中村英昭は稲葉地一家の本部長(当時の稲葉地一家におけるナンバー2の役職)時代の1991年、髙山清司(当時弘道会若頭)(*9)と兄弟分の盃を交わしました(*4)。つまり「組織のナンバー2同士による兄弟盃」が交わされました。

 両者による兄弟盃の内容が、対等関係を示す「五分兄弟盃」(*10)だったのか、上下関係を示す「五厘下がり」(*10) もしくは「一分下がり」(*10)だったのかは分かりません。もし両者の兄弟盃が「五分兄弟盃」だった場合、当時の稲葉地一家と弘道会は「同程度の組織規模」だったことが推測されます。

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p114-115

*2 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社), p61

*3 『血と抗争 山口組三代目』(溝口敦、1998年、講談社+α文庫), p122

*4 『BAMBOO MOOK 二代目弘道会総覧』(ジェイズ・恵文社編、2010年、竹書房),p107

*5 『実話時代』2017年9月号, p28

*6 『弘道会の野望 司六代目と髙山若頭の半生』(木村勝美、2015年、メディアックス), p151

*7 『実話時代』2017年1月号「尾張游俠外伝 稲葉地一家鼻祖/日比津善七物語」(大谷浩二), p105

*8 『週刊実話』2017年5月11・18日号, p236

*9 『別冊 実話時代 山口組分裂闘争完全保存版』(2016年10月号増刊), p63

*10 『現代ヤクザ大事典』, p91

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