タクシー業を資金源としたヤクザ組織

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 太平洋戦争後、広島ヤクザ業界においてタクシー業を資金源とした組織がありました。太平洋戦争直後の1946年11月広島市で、テキヤ組織・村上組と博徒系組織・岡組の間で抗争が勃発しました(*1)。村上組は広島駅前闇市を、岡組は広島駅前の賭博場(表看板は土建会社事務所)を資金源としていました(*1)。村上組と岡組の抗争の背景には、広島駅前での資金源を巡る争いがあったと推測されます。抗争は1954年まで続き、村上組は壊滅しました(*1)。以降、岡組が広島市の裏社会を仕切っていきました(*1)。

 岡組舎弟に打越信夫がいました(*2)。打越信夫は陸軍除隊後、東京で運転技術を獲得、広島に帰郷し運送業を始めました(*2)。打越信夫はヤミ物資を運送していました(*2)。ヤミ物資運送という裏社会の仕事をしていたことを機に、打越信夫は岡組の舎弟になりました(*2)。岡組が打越信夫を子分ではなく地位の高い「舎弟」として取り込んだことから、打越信夫の「ビジネスマンとしての才覚」を岡組が評価していたことが考えられます。

 打越信夫は後にタクシー業に進出しました(*2)。打越信夫のタクシー会社(紙屋町タクシー)(*3)は1960年頃には広島市第三位の規模にまで拡大しました(*2)。また当時、打越信夫はヤクザ組織(打越組)のトップでもありました(*2)。つまり「裏社会用の活動組織」として打越信夫は、自身の率いるヤクザ組織(打越組)を結成していたのです。

 1962年岡組トップの岡敏夫が引退しました(*1)。同年5月、岡敏夫の承認の下、呉市を拠点にする山村組が岡組を合併しました(*1)。打越組は山村組に対抗、同年9月山口組の傘下に入り、「打越会」と改称しました(*1)。以降1967年8月まで、打越会は山村組と抗争を展開しました(*1)。その間、1964年山村組が軸となり共政会が結成されました(*1)。1967年8月、打越会と共政会の間で和解が成立、打越会は解散しました(*1)。同時に、打越信夫は引退しました(*1)。抗争の間、紙屋町タクシーの営業許可は、広島県警により取り消されていました(*3)。資金源の1つが断たれた中、打越会は抗争をしていました。紙屋町タクシーの営業許可取り消しは、抗争終結の一因だったと考えられます。

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p79-85

*2 『実話時代』2018年2月号「シリーズ/組織と闘将 第二回 広島ヤクザ岡組三羽ガラスの死闘」(本郷海), p44

*3 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』, p117

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