生島組

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 関西で資金獲得に長けたヤクザ組織の1つとして知られたのが生島組でした。山口組2次団体・菅谷組内で、1972年生島組は生島久次により結成されました(*1)。生島組は大阪のミナミを活動範囲とし、金融業や債権回収業、倒産整理等を手掛けていました(*1)。加えて生島組は野球賭博も開帳し、野球賭博の胴元として有名でした(*2)。

 生島組の上部団体・菅谷組は1977年、トップ菅谷政雄が山口組から絶縁処分を受けたことで、山口組から脱退しました(*3)。以降、菅谷組は独立団体として活動しましたが、1981年解散しました(*4)。菅谷組解散後、生島組は旧菅谷組下部団体・小車誠会に移籍しました(*5)。菅谷組解散(1981年)以降、小車誠会は独立団体として活動し、1991年山口組傘下に入りました(*6)。生島組は後に、山口組2次団体・竹中組に移籍しました(*5)。1989年、生島組は山口組2次団体・山健組に移籍しました(*5)。生島組が竹中組から山健組に移籍した背景として、竹中組の山口組脱退が考えられます。一和会との和解内容を巡り、竹中組トップ竹中武は山口組執行部と揉めていました(*7)。1989年竹中組は山口組を脱退しました(*7)。

 1984年生島久次は引退しました(*1)。以降、生島久次の実弟・生島仁吉が生島組を率いました(*1)。引退した生島久次は金融業を営みました(*2)。生島久次の貸付先の1つとして、ヤクザ組織がありました(*2)。引退後も生島久次がヤクザ組織と関わっていたことが分かります。1996年、生島久次は大阪市内で山健組組員により射殺されました(*2)。射殺された遠因として、ヤクザ組織への貸付があったと考えられます。

<引用・参考文献>

*1 『山口組若頭暗殺事件 利権をめぐるウラ社会の暗闘劇』(木村勝美、2009年、文庫ぎんが堂), p266-268

*2 『大阪ヤクザ戦争 ~30年目の真実~』(木村勝美、2009年、メディアックス), p42-43

*3 『洋泉社MOOK 「山口組血風録」写真で見る山口組・戦闘史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、1999年、洋泉社), p88

*4 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂), p249

*5 『週刊実話』2018年6月21日号, p34

*6 『六代目山口組10年史』(2015年、メディアックス), p233

*7 『「ごじゃ」の一分 竹中武 最後の任俠ヤクザ』(牧村康正、2017年、講談社), p159-163

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コメント

コメント一覧 (2件)

    • コメントありがとうございます。

      該当画像は持っていません。ご期待に添えず、すみません。

      テキスト収集で手一杯なところもありまして。
      画像や動画までは手を出せていないです。

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