淡熊会

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 「淡熊会」という博徒組織(*1)が大阪を中心に活動していました(*2)。すでに淡熊会は解散しています(*1)。淡熊会は明治時代(1868~1912年)、銅伝佐兵衛により結成されました(*2) (*3)。銅伝佐兵衛の別名は「淡路屋熊次郎」で、「淡熊(だんくま)」と略されました(*3)。淡熊会の組織名は、初代の名前の略から来ていると考えられます。

 銅伝佐兵衛(淡熊)は政治家とのつながりを有し、特に立憲政友会とパイプを持っていました(*3)。立憲政友会は1900年(明治三十三年)伊藤博文らを中心に結成された政党です(*4)。戦前の日本において立憲政友会は長く衆議院の第一党でした(*4)。銅伝佐兵衛(淡熊)は「有力な政治家」と関係を持っていたことが考えられます。

 結成当初の淡熊会における主な資金獲得活動は、賭博業でした(*3)。後に、淡熊会は土建業に進出していきました(*3)。日清戦争(1894~1895年)、日露戦争(1904~1905年)後、景気の回復を追い風とし、博徒組織は他業種に進出していきました(*5)。博徒組織の進出業種として、売春業、興行(芸能ビジネス)、土建業、鉱業などがありました(*5)。1905年以降、博徒組織の活動範囲は広がり、資金獲得源が複数化されました。時代に逆らうことなく、淡熊会も他業種の土建業に進出していったのです。淡熊会は清水組(現在の清水建設)の「下請け」に関与していました(*6)。

 銅伝佐兵衛(淡熊)は1914年(大正三年)、72歳で死去しました(*3)。銅伝佐兵衛(淡熊)死去後、淡熊会幹事長を務めた宇和島清蔵は「大工の棟梁(トップ)」を兼任していました(*3)(幹事長時代には大工の棟梁をやめていた可能性もあります)。「淡熊会幹事長」と「大工の棟梁」の兼任のエピソードから、淡熊会が土建業を資金獲得源の1つとしていたことがよく分かります。

 1925年(大正十四年)12月21日、東京電力株式会社(現在の東電ではありません)の火力発電所(神奈川県橘樹群島田町大川町)の建設工事を巡り、神奈川県鶴見で「三谷秀組」と「青山組・松尾組」が抗争をしました(鶴見騒擾事件)(*7)。三谷秀組は神奈川県を主な活動範囲とし、土建業と賭博業を資金獲得源としていました(*7)。先述の火力発電所建設工事において三谷秀組は、間組(建設会社)の「下請け」でした(*7)。間組は火力発電所建設工事において、前段階の基礎工事と水路工事の業務を落札していました(*7)。

 一方、青山組は東京や神奈川を主な活動範囲とし、土建業(主に土木と鳶)を資金獲得源としていました(*7)。先述の火力発電所建設工事において青山組は、清水組(現在の清水建設)の「下請け」でした(*7)。清水組は火力発電所建設工事において、建設工事の業務を落札していました(*7)。松尾組は神奈川の組織で、青山組に加勢しました(*7)。

 鶴見騒擾事件の前、三谷秀組による「清水組の建設工事」の妨害活動がありました(*7)。清水組側(青山組)にとって、前段階の工事を担当した三谷秀組の「了承」なくして、現場で建設工事は困難でした(*7)。三谷秀組の妨害活動は、間組の意向を受けてのものでした(*7)。次第に両者の緊張感が高まり、鶴見騒擾事件が起きました。

 鶴見騒擾事件では、淡熊会は青山組の応援として参加、大阪から構成員200人を神奈川に動員しました(*7)。幹事長の宇和島清蔵が淡熊会200人の陣頭指揮をとりました(*3)。交通が発達していないかった当時、大阪から神奈川に200人を移動させるには、相当な資金が必要だったと考えられます。当時の淡熊会が経済的に潤っていたことが推測されます。淡熊会と青山組には、「清水組の下請け」という共通点がありました。淡熊会が青山組の応援に行った経緯として、「清水組からの依頼」「青山組からの依頼」「自発的な参加(清水組に対する忠誠心を見せる目的)」などが考えられます。以上から鶴見騒擾事件は、間組と清水組の「代理戦争」の側面もあったと考えられます。

 淡熊会は「博徒組織」と位置付けられてきましたが、「土建業者の親睦団体」という一面も持っていました(*3)。淡熊会に似た組織としては、先の三谷秀組や東京の浅草高橋組がありました(*8)。浅草高橋組は1909年(明治四十二年)に浅草で結成されました(*8)。浅草高橋組は土建業を資金獲得源とする一方(*8)、賭博業も展開していました(*9)。

 淡熊会は1985年時点、「十二代目淡熊会」として活動していました(*10)。1991年7月諏訪一家(西宮市)が山口組の傘下に入りました(*11)。諏訪一家は淡熊会に加盟していました(*12)。諏訪一家は1923~1924年頃、諏訪健治により設立されました(*13)。諏訪健治は1956年、淡熊会七代目会長に就任しました(*13)。以上からおそらく淡熊会は1990年代に解散したと思われます。

<引用・参考文献>

*1 『実話時代』2016年8月号, p113

*2 『山口組の100年 完全データBOOK』(2014年、メディアックス), p55

*3 『ヤクザの世界』(青山光二、2005年、ちくま文庫), p116-120

*4 『もういちど読む 山川日本史』(五味文彦・鳥海靖編、2010年、山川出版社), p248

*5 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p140-141

*6 『FOR BEGINNERS シリーズ ヤクザ』(朝倉喬司、2000年、現代書館), p112-115

*7 『洋泉社MOOK・ヤクザ・流血の抗争史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p20-27

*8 『ヤクザ伝 裏社会の男たち』(山平重樹、2000年、幻冬舎アウトロー文庫), p300-302

*9 『別冊 実話時代 龍虎搏つ!広域組織限界解析Special Edition』(2017年6月号増刊), p93

*10 『実話時代』2019年9月号, p35

*11 『山口組の100年 完全データBOOK』, p448

*12 『ヤクザの世界』, p236

*13 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑧ 現代ヤクザマルチ大解剖 ②』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2005年、三和出版), p120

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