元松葉会の久野益義は1967年衆議院議員総選挙(茨城県)に出馬しました(*1)。結果、久野益義は落選しました(*1)。
久野益義は茨城県日立市を拠点にする助川一家の元親分(二代目総長)でした(*2)。1953年松葉会の結成時、久野益義は中心メンバーとして加わりました(*3)。松葉会において久野益義は総務会長を務めました(*2)。
1964年から開始された警察庁によるヤクザ組織に対する取締り強化(通称:“頂上作戦”)を受け(*4)、翌1965年松葉会は解散しました(*5)。
1964年5月25日兵庫県神戸市の料亭において、松葉会と本多会のトップ同士による五分兄弟盃が交わされました(*6)。五分兄弟盃の披露宴の「芳名録」には、見届人として「久野益義」の名前が記載されていました(*6)。1964年時点でも久野益義は松葉会に在籍したことが推測されます。
1965年松葉会解散の前後に、久野益義はヤクザ業界から引退し、1967年の衆議院議員総選挙に出馬したと考えられます。
1968年旧松葉会の勢力は再結集し、「松友会」を結成しました(*5)。1973年松友会は組織名を以前の「松葉会」に戻しました(*5)。
<引用・参考文献>
*1 『親分 実録日本俠客伝①』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p176
*2 『親分 実録日本俠客伝①』, p105
*3 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p156
*4 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社)p168
*5 『親分 実録日本俠客伝①』, p110-111
*6 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p85-87
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