高島三次

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 太平洋戦争終了(1945年)以降、名古屋テキヤ業界の大物として知られたのが高島三次でした (*1)。1945年以降、高島三次は「中京七人衆」の1人に位置付けられていました(*2)。高島三次はテキヤ業界に入る前までは、アナキスト(無政府主義者)でした(*2)。高島三次の1例からの推測ですが、当時のテキヤ組織は経歴を問わず人を受け入れていたと考えられます。

 1948年4月4~6日静岡県浜松市において、地元テキヤ組織・関東霊岸島桝屋一家服部組と朝鮮人グループが抗争(通称:浜松抗争)をしました(*3)。4月5日関東霊岸島桝屋一家服部組の応援として、高島三次率いる組織(矢野睦会)の組員達が浜松市に到着しました(*3)。1948年当時、高島三次は矢野睦会というテキヤ組織のトップだったことが分かります。

 高島三次は極東桜井グループの「親分」でした(*2)。極東桜井グループは、1921年(大正十年)に結成された桜井一家を源流としました(*4)。桜井一家は静岡県沼津市を拠点としたことから、極東桜井グループの本拠地も沼津市でした(*4)。一方、1967年時の高島三次を極東桜井グループの「客分」と表す資料があります(*5)。

 1945年以降の高島三次は、極東桜井グループの「分家」もしくは「一家名乗りした組織」として矢野睦会を率い、後に極東桜井グループから離れたものの「客分」という形で関与していたと考えられます。もしくは高島三次は極東桜井グループの一員ではなく、長年「客分」という形でのみ極東桜井グループに関与していたと考えられます。

 1948年浜松抗争の関東霊岸島桝屋一家服部組の応援には、矢野睦会の他に、沼津市の山憲一家も参加していました(*3)。推測の域を出ませんが、おそらく山憲一家は、極東桜井グループの「山健一家」 (*4) (*6)の前身と思われます。矢野睦会が「極東桜井グループの組織」もしくは「極東桜井グループと関わりの強い組織」だったことから、浜松抗争においては、矢野睦会と山憲一家が連携する形で関東霊岸島桝屋一家服部組の応援に入った可能性もあったと考えられます。

 昭和元年(1926年)頃、三組織の話し合いにより、静岡県における庭場(テキヤ組織における縄張り)が「3分割」されることになりました(*7)。三組織とは「極東桜井グループ」「静岡大頭竜一家」「関東霊岸島桝屋一家服部組」のことでした(*7)。話し合いにより、極東桜井グループが「静岡県東部」(富士川以東)、静岡大頭竜一家が「静岡県中部」(富士川と大井川の間)、関東霊岸島桝屋一家服部組が「静岡県西部」(大井川以西)を庭場とすることになりました(*7)。

 関口愛治(極東会初代に位置付けられる人物)は極東桜井グループの渉外として、話し合いに参加しました(*7)。高島三次も、関口愛治のサポート役として、話し合いに参加していました(*7)。1926年頃から、高島三次が極東桜井グループに関与していたことが読み取れます。

<引用・参考文献>

*1 『実話時代』2019年9月号, p83-85

*2 『やくざと日本人』(猪野健治、2011年、ちくま文庫), p254-255

*3 『戦後ヤクザ抗争史』(永田哲朗、2011年、文庫ぎんが堂), p14-20

*4 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p134-135

*5 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』, p128

*6 『洋泉社MOOK・義理回状とヤクザの世界』(有限会社創雄社実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p42-43

*7 『SANWA MOOK ウラ社会読本シリーズ⑤ 極東会大解剖 「強さ」を支えるのは流した血と汗の結晶だ!』(実話時代編集部編、2003年、三和出版), p42

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