密輸品の経路

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  密輸品の特長の1つとして、「合法的商品より安い」ことが挙げられます。輸入品に対しては、通常関税やその他の税が課せられます。一方、密輸品に対しては、違法の経路で輸入される性格上、行政機関が関税やその他の税を課すことは困難です。密輸品は、関税やその他の税から逃れられる為、低価格で供給されます。

 パキスタンのペシャワールという街(アフガニスタンの国境に近い)には、「バラマーケット」という市場がありました(*1)。バラマーケットでは、家電やオーディオ製品、食器、家具、衣料品、化粧品などが、他よりも「低価格」で売られていました(*1)。バラマーケットの商品は「密輸品」でした(*1)。

 パキスタンの密輸業者は「パキスタンの港」から「ペシャワールのバラマーケット」に直接、商品を輸送していた訳ではありません。商品は隣国アフガニスタンを「一度経由」してから、ペシャワールのバラマーケットに運ばれました。

 1921年、アフガニスタンがカラチ(パキスタン)などの英領インドの港から商品を輸入した場合、イギリスは関税をかけない取り決めをしました(*1)。以降、アフガニスタンはカラチなどの港を使えば、免税の商品(低価格品)を手にすることができました。

 パキスタン領内のアフガニスタン国境付近では、「部族地域」と呼ばれる自治区(*2)がありました(*1)。「部族地域」の部族は、パシュトン人を指していました(*2)。自治区は7つありました(*1)。パキスタン政府が自治区に介入を余儀なくされた時、重装備の軍隊を派遣する必要がありました(*3)。自治区が自身の武装勢力を抱えていたことが考えられます。

 自治区(「部族地域」)は元々、パシュトン人の居住地域でした(*2)。1893年以前、英領インドとアフガニスタンの境界線はインダス川でした(*2)。しかし1893年の協定により、境界線が150~200㎞程度西方に延びた結果、パシュトン人居住地域の一部が英領インドに組み込まれました (*2)。新境界線は「デュランライン」と呼ばれました(*2)。

 元々、パシュトン人居住地域はデュランラインをまたぐ形でありました(*2)。デュランラインにより、パシュトン人居住地域は分断されてしまったのです。パシュトン人は英領インドに対し、ゲリラ攻撃を行い、反発を示しました(*2)。結果、1901年英領インドはアフガニスタン国境沿いのパシュトン人居住地域を自治区とし、司法権や行政権はパシュトン人村落の意思決定機関(ジルガ)に委ねました(*2)。1947年パキスタン誕生後も、自治区の制度は引き継がれました(*2)。

 7つの自治区は「パキスタン政府の法的拘束力」から外れていました(*3)。パキスタン政府の税関業務は、自治区では不可能でした。自治区は絶好の「密輸経路」として機能しました。

 バラマーケットの密輸品は、アフガニスタン→自治区(「部族地域」)の経路で運ばれていました(*1)。以上の経路であれば、商品はパキスタン政府の関税等から逃れられる為、低価格で供給されることが可能となります。

<引用・参考文献>

*1 『タリバン』(田中宇、2001年、光文社新書), p170-177

*2 『タリバン』, p128-129

*3 『タリバン』, p181-182

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