工藤会と草野一家の組員数比

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 福岡県北九州市を拠点とする工藤會の前身は「工藤連合草野一家」です(*1)。1987年6月工藤会と草野一家の合併により、工藤連合草野一家が結成されました(*1)。草野一家トップの草野高明は元々、工藤会トップ工藤玄治の子分でした(*2)。工藤会の前身は工藤組です(*2)。1946年工藤組は工藤玄治により興されました(*2)。工藤組は博徒系の組織でした (*2)。草野高明は工藤組結成前から、工藤玄治の子分でした(*2)。後に、草野高明は工藤組若頭を務めました(*3)。

 1963年工藤組は山口組と抗争をしました(*3)。抗争による殺人事件で、若頭・草野高明は殺人教唆の罪で逮捕され、長期の懲役刑に服すことになりました(*3)。1966年留置場において、草野高明は「自身の工藤組脱退」と「草野組(工藤組2次団体)解散」を発表しました(*3)。工藤玄治は事前に草野高明から、発表内容を知らされていませんでした(*3)。親分の工藤玄治は、草野高明を絶縁処分としました(*2)。

 1977年5月高知刑務所から出所した草野高明は、5カ月後の同年10月に「草野一家」を結成しました(*3)。草野一家は組織を興す際、工藤会(1963年以降「工藤会」に改称(*3))から「了承」も得ていました(*2)。兵庫県西宮市を拠点とする松本組が仲立ちする形で、出所した草野高明は工藤玄治と会談をしました(*2)。会談において、新組織が工藤会の縄張りに進出しないこと、賭博ビジネスのみ行うことを条件に、草野一家結成が了承されました(*2)。

 1979~1981年工藤会と草野一家は抗争をしました(*3)。1981年2月両団体は和解に至りました(*3)。1987年6月工藤連合草野一家結成時、工藤会の勢力は傘下団体9団体、組員206人でした(*4)。一方、草野一家の勢力は傘下団体26団体、組員628人でした(*4)。組員数比では、草野一家が工藤会の約3倍でした。当時、草野一家の方が大きい勢力を有していたことが分かります。

 1993年北九州市門司区を拠点とする「土谷会」が工藤連合草野一家に入りました(*5)。1993年以前まで、「土谷会」という独立組織が北九州市で活動していたことが分かります。1999年1月工藤連合草野一家は「工藤會」に改称しました(*6)。

<引用・参考文献>

*1 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p59

*2 『ヤクザの幹部をやめて、うどん店はじめました。 極道歴30年中本サンのカタギ修行奮闘記』(廣末登、2018年、新潮社), p45-47

*3 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』, p55-58

*4 『ヤクザの幹部をやめて、うどん店はじめました。 極道歴30年中本サンのカタギ修行奮闘記』, p141

*5 『県警VS暴力団 刑事が見たヤクザの真実』(藪正孝、2020年、文春新書), p34

*6 『県警VS暴力団 刑事が見たヤクザの真実』, p51

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