塩の販売手形

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 中国の明王朝時代(1368~1644年)、「塩の販売手形」(塩引)が決済手段として用いられていました。明王朝は北方民族の侵攻に備え、北辺に大量の軍隊を置いていました(*1)。軍隊は「人の集団」である為、大量の食糧を必要とします。北辺駐屯の軍隊に向けて、商人が食糧を運びました(*1)。

 北辺駐屯の軍隊は、食料を運んできた商人(商人A)に対し、代金として塩引を渡しました(*1)。商人Aは塩引を「塩の生産地」に持って行き、塩と交換してもらいました(*1)。次に商人Aは特定区域内に塩を運び、そこで販売し、銀などを得ました(*1)。以上の仕組みは「開中法」と呼ばれました (*1)。

 商人Aは「食糧を調達する」→「北辺に食糧を輸送する」→「生産地で塩を得る」→「特定区域で塩を販売し、銀を得る」という経路を経ていました。商人Aは、銀を得るまでに、複数の場所を訪れていたことが分かります。

 塩引が決済手段に用いられていた一因としては、「塩」という商品の需要の高さがあったと考えられます。需要の高い商品は、すぐに売れる為、換金化しやすいです。明代、塩は「換金化しやすい商品」と認識されていたのでしょう。

 商人間において塩引は転売されました (*2)。通常「塩引の取得者」と「塩の取得者」は同じでなければなりませんでした(*2)。

 塩引は手形という性質上、時期によって、「利益」もしくは「損失」が生じたと考えられます。「塩の価格が高騰した時期」には、「塩がいつもより高く売れる」為、利益が生じたと考えらえます。反対に「塩の価格が低落した時期」には、「塩がいつもより安くしか売れない」為、損失が生じたと考えられます。

<引用・参考文献>

*1 『陸海の交錯 明朝の興亡 シリーズ 中国の歴史④』(檀上寛、2020年、岩波新書), p132

*2 『歴史の転換期6 1571年 銀の大流通と国家統合』「二章 北虜問題と明帝国」(城地孝、2019年、山川出版社),p90-91

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