大日本国粋会

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 ヤクザ組織主導の政治結社として、「任侠系右翼団体」があります(*1)。ヤクザ組織による政治結社の設立は、大正時代(1912~1926年)から見られました。1919年(大正八年)11月全国の博徒系、土建系のヤクザ組織らにより「大日本国粋会」という政治結社が設立されました(*2)。

 ヤクザ組織による全国規模の政治結社設立は、当時の原敬内閣(政友会)における内相・床次竹二郎の発案でした(*2)。背景には、1918年(大正七年)発足の原敬内閣が社会主義運動に直面していたことがありました(*2)。床次竹二郎が「社会主義運動の潰し」役としてヤクザ組織に期待していたことが分かります。床次竹二郎の下、政友会の米田穣代議士が政治結社設立の為、ヤクザ組織との交渉役を務めました(*2)。大日本国粋会には、関東から幸平一家、住吉一家、土支田一家等、関西からは砂子川一家等が参加しました(*2) (*3)。また京都の千本組、名古屋の大道会も大日本国粋会に参加していました(*4)。

 しかし設立から3年後の1922年(大正十一年)、大日本国粋会は分裂しました(*5)。1922年8月関東勢が「大日本国粋会関東本部」を設立、関西勢と袂を分かちました(*5)。1930年(昭和五年)大日本国粋会関東本部は「関東國粋会」と改称、また友好団体を集め、大日本國粋聯合会を結成しました(*5)。一方、関西勢は分裂後「大日本国粋会総本部」と名乗りました(*5)。

 1923年(大正十二年)3月奈良県内で、大日本国粋会総本部は全国水平社(部落解放運動の組織)と衝突しました(*2)。翌1924年(大正十三年)大日本国粋会総本部は大阪市電のスト破りを実行しました(*6)。大日本国粋会総本部は「国家権力の私兵」として機能していたことが窺えます。

 大正時代には大日本国粋会以外にも、ヤクザ組織による政治結社設立が見られました。大正時代、東京(東京府)だけで57の右翼団体が設立されました(*6)。1921年(大正十年)、河合徳三郎の主導により「大和民労会」が設立されました(*7)。大和民労会設立には、国政政党の民政党の支援がありました(*7)。河合徳三郎は元々、大日本国粋会に所属していましたが、脱退、大和民労会を設立しました(*2)。

 小林一家(大阪)の酒井栄蔵は1922年(大正十一年)「大日本正義団」を設立しました(*2) (*7)。酒井栄蔵は手配師の出身でした(*8)。大日本正義団は目蒲電鉄、江の島電車、東洋モスリンの争議に介入しました(*6)。おそらく大日本正義団は3社のスト破りを実行したのだと考えられます。

<引用・参考文献>

*1 『ヤクザ1000人に会いました!』(鈴木智彦、2012年、宝島SUGOI文庫), p151-153

*2 『やくざと日本人』(猪野健治、2011年、ちくま文庫), p259-265

*3 『任俠 実録日本俠客伝②』(猪野健治、2000年、双葉文庫), p22

*4 『テキヤと社会主義 1920年代の寅さんたち』(猪野健治、2015年、筑摩書房), p144,149

*5『洋泉社MOOK・ヤクザ・流血の抗争史』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2001年、洋泉社), p14,18

*6 『FOR BEGINNERS シリーズ㊷ 右翼』(第Ⅰ部著者・宮谷一彦、第Ⅱ部著者・猪野健治、1999年、現代書館), p120

*7 『やくざと日本人』, p207

*8 『裏社会の日本史』(フィリップ・ポンス、安永愛 訳、2018年、ちくま学芸文庫), p298

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