「住吉会」は1958年に結成された「港会」を源流としています(*1)。港会は博徒組織、テキヤ組織、愚連隊などの計28団体により構成され(*2)、中核に位置したのが博徒組織「住吉一家」でした(*1)。住吉一家の名前は、幕末に初代・伊東松五郎が日本橋住吉町(現在の人形町)に拠点を置いたことから由来しています(*1)。
港会結成時の1958年、住吉一家トップは三代目総長の阿部重作でした(*1)。港会の会長(トップ職)には青田富太郎が就任しました(*2)。当時、青田富太郎は「阿部重作の代貸」でした(*2)。代貸とは「賭場の現場責任者」であり、転じて「組織内ナンバー2」を意味しました(*3)。ちなみに関西では代貸に該当する者は「盆守り」と呼ばれることが多かったようです(*3)。
港会初代会長の青田富太郎は、住吉一家内では序列2位(もしくはそれに準ずる地位)であったことが分かります。住吉一家内では「青田富太郎の地位」よりも「阿部重作の地位」方が高かったです。
つまり1次団体「港会会長」(トップ職)は青田富太郎(住吉一家内では序列2位)であり、2次団体「住吉一家総長」(トップ職)は阿部重作(住吉一家の最高位)という関係が構築されたのです。
結成当初の港会において会長等の執行部は実権を持てず、ゆえに港会(1次団体)の加盟組織(2次団体)の拘束力は弱かったと考えられます。
1962年阿部重作は引退、磧上義光が住吉一家四代目を継承しました (*1)。磧上義光は元々、博徒組織「上萬一家」の貸元でした(*2)。上萬一家は幕末に誕生し、最盛期は江戸川区、葛飾区、千葉県西部に縄張りを持っていました(*4)。1950年上萬一家四代目の高田宇吉が死去しました(*4)。1961年「松葉会」初代会長の藤田卯一郎が、上萬一家五代目総長に就きました(*4)。11年間、上萬一家の総長職は空席となっていたのでした。
磧上義光の実兄・磧上義朝も弟同様、上萬一家の貸元でした(*5)。磧上義朝は阿部重作の五厘下がりの舎弟でした(*5)。磧上義光が阿部重作の跡を継げたのは、阿部重作と実兄(磧上義朝)の「兄舎弟関係」も寄与していたことが考えられます。1964年港会は住吉会に改称しました(*1)。住吉会会長には磧上義光が就任しました(*1)。この時点において、磧上義光が「住吉一家総長」(2次団体トップ職)と「住吉会会長」(1次団体トップ職)を兼任していたのです。
しかし警察庁による第一次頂上作戦により、1965年住吉会は解散しました(*1)。1967年磧上義光は死去しました(*1)。
<引用・参考文献>
*1 『実話時代』2017年5月号, p23-24
*2 『洋泉社MOOK・ヤクザ・指定24組織の全貌』(有限会社創雄社・実話時代編集部編、2002年、洋泉社), p44-45
*3 『現代ヤクザ大事典』(実話時代編集部編、2007年、洋泉社),p17
*4 『実話時代』2016年6月号, p30-31
*5 『実話時代』2018年5月号, p50
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