台湾と満洲国のアヘン政策

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 日本は日清戦争(1894~1895年)の結果、1895年(明治二十八年)台湾を支配下に置きました(*1)。2年後の1897年(明治三十年)、台湾アヘン令が公布されました(*1)。台湾アヘン令は、内務省衛生局長・後藤新平の考え(「漸禁」と「専売制度」)に基づき、制定されました(*1)。台湾アヘン令は、アヘン吸煙をアヘン中毒者のみに認め、またアヘン独占販売権を行政機関に付与しました(*1)。台湾アヘン令は違反者に対し罰則を科していました(*1)。

 アヘンはケシを材料とします(*2)。ケシは5~6月に花を咲かせます(*2)。ケシの花は1日でしぼみ、楕円形の果実が作られます(*2)。果実は未熟の時刃物で傷つけられると、乳状の液を出します(*2)。生産者は乳状の液を乾燥、固形化し、生(しょう)アヘンを作りました(*2)。生アヘンの加工品が「アヘン煙膏」でした(*2)。人々はアへン煙膏をパイプに入れ、アヘンを吸煙していました(*2)。覚醒剤の使用者同様(*3)、アヘン使用者は耐性をつけていき、使用量を増やしていきます(*2)。

 「日本の傀儡国家」として1932年誕生した満州国でも、「漸禁」と「専売制度」に基づくアヘン政策がとられました(*4)。1933年施行のアヘン法では、未成年者を除くアヘン中毒者のみにアヘン使用が認められ、行政機関のみに販売が認められました(*4)。アヘン法も違反者に対し罰則を科していました(*4)。

 台湾アヘン令と満洲国アヘン法は、表向きアヘン使用を「悪い」ことと位置付けた上で、アヘン販売を行政機関に認めていたのです。

<引用・参考文献>

*1 『日中アヘン戦争』(江口圭一、1988年、岩波新書), p29-30

*2 『日中アヘン戦争』, p14-18

*3 『裏社会 噂の真相』(中野ジロー、2012年、彩図社), p223

*4 『日中アヘン戦争』, p44-45

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