喜望峰経由の胡椒と香辛料

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 16世紀前半以降、「インド洋西海域における海上貿易」はポルトガルにより統治されました(*1)。1503年から1515年まで、ポルトガルはインド洋海域における主要港町を武力制圧し、支配下に収めました(*1)。ポルトガルはまず東アフリカのソファラ(1505年)、モザンビーク(1508年)を支配下に収めました(*1)。またインド西海岸のゴア(1510年)、マレー半島のマラッカ(1511年)、ペルシャ湾のホルムズ(1515年)がポルトガルに制圧されました(*1)。当時ポルトガルは銃や大砲の火薬兵器を用いていたのに対し、インド洋海域の主要港町は火薬兵器を用いていませんでした(*2)。ポルトガル勝利の要因の1つとして、兵器装備の差があったと考えられます。

 ポルトガルは支配下に収めた港町に、要塞を作り、ポルトガル人を駐留させました(*1)。ポルトガルの狙いは「胡椒及び香辛料貿易」の独占でした。以前から、ヨーロッパでは胡椒及と香辛料の需要が高かったです(*3)。しかしヨーロッパでは胡椒と香辛料を生み出す植物が気候的に育たず、ヨーロッパ商人はインドや東南アジアから胡椒と香辛料を調達するしかありませんでした(*3)。

 例えばインド産胡椒は、「インドのカリカット」→「シリアやエジプト」→「ヴェネチア」の経路で、ヨーロッパに運ばれていました(*3)。「カリカット」→「シリアやエジプト」の経路では、船は「インド洋西海域」を通った後、「ペルシャ湾又は紅海」を通りました(*3)。「シリアやエジプト」→「ヴェネチア」の経路では、船は「地中海」を通りました(*3)。他の胡椒や香辛料も、似た経路で運ばれていました(*1)。以上の経路では介在者が多く、各地で関税がかかりました(*3)。ヨーロッパに着いた胡椒と香辛料は「高額」になっていました(*3)。最終到着先であるヴェネチアの商人が、胡椒と香辛料をヨーロッパで独占販売しました(*3)。

 ポルトガルは支配下に収めた港町において、船を監視、従来の「西アジア経由」で胡椒と香辛料を運ばせないようにしました(*1)。代わりに、ポルトガルが喜望峰経由の経路で、胡椒と香辛料を運びました (*1)。喜望峰経由の経路では「介在者」がいない為、ポルトガルは胡椒と香辛料を「西アジア経由」よりも安く販売することができました(*3)。次第に、胡椒と香辛料販売においてポルトガルはヴェネチアよりも優位になっていったと考えられます。

<引用・参考文献>

*1 『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』(羽田正、2019年、講談社学術文庫), p56-59

*2 『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』, p51

*3 『興亡の世界史 東インド会社とアジアの海』, p50

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